第18話 交渉
柵木ビル管理事務所の総務部長、鍛治田益生は、渋谷にある喫茶店で登野城警備保障の営業部長である天川雄士(あまかわ ゆうじ)が来るのを待っていた。
「お待たせいたしました、鍛治田部長」
色黒で細身の天川が、鍛治田のいるテーブルにやって来た。
「いえいえ。こちらこそ急な申し出にもかかわらず、お時間を取っていただきありがとうございます。どうぞおかけください」
鍛治田は一度立ち上がり、天川を迎えた。
「では、失礼します」
天川は鍛治田と向かい合う形で席に着いた。
すぐに店員がメニュー表を持って、テーブルにやって来た。
「アイスコーヒー、ひとつ」
天川はメニュー表を手に取らず注文した。
店員は一礼して、すぐに下がって行った。
鍛治田は店員がいなくなったのを見て、口を開いた。
「柵木社長が、気付きました」
「何をです?」
「抜き取りのことです」
鍛治田は声のボリュームを少し落として言った。
「それで?」
天川は全く気に留めていない様子だった。
「もう、止めたほうがいいですよ。じゃないと、社長に証拠をつかまれます」
「私はかまいませんけど」
「えっ?」
天川の態度を見る限り、本当にバレてもいいと思っているようだった。
「本当にいいのですか?」
「息子がうちの店で働いているんですよ? なぜ我々がビビらないといけないんですか?」
「確かに……そうですね」
考えが甘かった。天川たちはバレる前に手を引くと思っていた。
「そもそも鍛治田部長が、彼をうちの店に紹介したんじゃないですか。私はあなたが今後も末長く我々とお付き合いすることを決めたから、紹介したんだと思っていましたよ」
天川は口元をいやらしく歪ませながら言った。
重則君の力になりたいという思いが先立って、その後の事までしっかり考えていなかった。
完全に私のミスだ。
「お待たせしました。アイスコーヒーです」
店員がアイスコーヒーを持ってテーブルにやって来た。
天川は目の前に置かれたアイスコーヒーの中にクリープとガムシロップを混ぜ、ストローでよくかき混ぜ始めた。
「鍛治田部長」
「はい」
「これからも、お互い仲良くやって行きましょうよ」
天川はそう言うと、こちらに視線を向けながらアイスコーヒーをおいしそうに啜った。
会社に戻ると、鍛治田は会社のパソコンを立ち上げ、決算書の画面を開いた。
この不況下の中、登野城が低価格で仕事を引き受けてくれているので、決算は悪くない。
だから、多少のことは目を瞑ろうと鍛治田は考えていた。
しかし、先程の天川の態度を見ていると、多少ではすまない状況になってきた。
どうする?
「お疲れ様です。鍛治田部長」
名前を呼ばれ顔を上げると、そこには社長秘書の石間美樹子がいた。
「これ贈答品のお菓子なんですけど、もう少しで賞味期限が切れてしまうんです。このカステラ、部長お好きでしたよね? よかったらどうぞ」
そう言って、石間はカステラが二切れ乗った皿を鍛治田の机に置いた。
「ああ。ありがとう」
「実は先ほど、手土産を買いに外出していたんですけど、渋谷の喫茶店で鍛治田部長を見かけましたよ」
「えっ?」
鍛治田は凍りついた。もしかして先程の話を聞かれたのか?
「一緒にいた方は、うちと契約している会社の方ですか?」
どうする? 誤魔化すか? いや、見かけたと言っただけだから、話は聞いていないはずだ。
「あの人は登野城警備保障の天川営業部長。登野城はお手頃な価格でうちの仕事を請け負ってくれているんだよ」
鍛治田は正直に石間に話した。
「そうなんですか。また随分、お若い方が部長なんですね」
「登野城は立ち上げてまだ数年の会社だからね。若い人が多いんだよ」
「なるほど。それでですか。あっ、すいません。仕事の邪魔をしてしまって。失礼します」
そう言って、石間は鍛治田の席から離れて行った。
ちょっと神経質になっているかな。
石間の後ろ姿を見ながら、鍛治田は少し肩の力を抜こうと思った。
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