独房二畳半、薄翅蜉蝣は月を想う
打ちっぱなしのコンクリートは、上に塗られた塗装が剥げて表れたものだと思われる。ここは二畳半の小さな部屋、硬いマットレスとトイレ以外には何も無い独房。窓は無く、光はと言えば剥き出しの弱々しい白色灯だけである。昼夜問わず光量は変わることがなく、その明かりではうかうか小説も読めない程である。尤も、そんなものは生涯一度も読まずに生きていた身ではあるのだが。
さて、この薄暗く埃っぽい部屋で過ごしてかれこれ二年が経つらしい。常人であればとっくの昔に壊れてしまうであろうほどに刺激のない部屋であるが、何故か私はけろりとした顔で既に二年という歳月を浪費してしまっている。まあ浪費とは言ったが、この部屋を出てやることがあるかといっても特に思いつきはしない人生である、故にこのくだらない灰色の二畳半でこれほどまでに長い時間を過ごせてしまっているのだろう。そういえばこの間、看守と思われる男が遂に私に話しかけてきた。お前以外の人間は皆壊れて人間性を失ってしまった、この部屋は狂う程に退屈なのではなかったのか、そんなふうに問われたので、私はもとより退屈な人間であるので生きているだけで退屈しないと答えた。ふうん、と興味があるのかないのか分からない返事をして彼はすぐに行ってしまったが、それ以来彼はぽつぽつと顔を見せるようになった。
思えばこれまでの間、だんだんと人の声が少なくなっていったような気がする。そう零したら、彼はその通りだと言った。君以外は皆死んでしまった、この本国からは遥か彼方にあるこの土地は君を最後に囚人を受け入れなくなったのだと彼は説明してくれた。彼の話し方からは知性を感じた。そう告げると、彼は有難うと笑った。その日はそれきりだった。
またしばらくした頃、彼は小さい頃の夢を語った。ウチュウヒコウシ、だっただろうか。その言葉を昔ニュースで聞いたことはあった。確か空の向こう、宇宙という暗い場所を飛ぶ仕事であったような気がする。その夢を語る彼の言葉からは微かな熱を感じた。元来夢を持ったことなど無かった私には彼が輝いて見えた。薄暗い部屋の外、金網の向こうにもたれる彼に私は微かな憧れを抱いていた。
月に行きたかったのだと彼は言った。月は知っていた。空に浮かぶ大きな光のことだ。私はそれが行けるところだと知らなかった。君は何も知らないのか、そう言って彼は少しの笑みを浮かべた。蔑むではなく、嫌悪感を感じさせない笑顔だった。そこで初めて私も笑みを見せたのだと思う。彼は私のことを笑いもしないほど冷たい人だと思っていたらしく、私から零れた笑みを見て驚いた顔をした。そこに私は怪訝そうな顔をして、彼は可笑しくなったのかまた笑った。
彼は遠い時代、遠い国の人の名前を出した。彼の憧れの人だったらしい。彼はその人の言葉をひとしきり並べた。私は一つも分からなかったが、彼は日本語で言い直した。一人の人間にとっては小さな一歩でも人類にとっては偉大な一歩、とかなんとかだったような気がする。私は首を捻って、一歩は一歩だろう、と言ったら、彼は、君は浪漫が無いが確かにその通りだと言って笑った。彼はとても穏やかな人だった。
この外は、晴れていれば月が綺麗だと彼が言った。外の光など久しく見ていない私にはいまいち実感の湧かない言葉だった。彼は美しい星空を君に見せたいと言った。私は人殺しの私を自由にすれば貴方をどうするか分からない、と零した。これは本心だった。私すらも私という人間を測りかねていた。ひょっとしたら何かの拍子に首を絞めて頭を開いてその思考を知ろうとするかもしれない。そんな気すらしていた。しかし彼は振り返って真面目な顔をした。真面目な顔をして、君はきっとそんなことはしない、と少し大きな声で念を押すように言った。その声に少し気圧されてしまった。彼は私の過去を知らないはずがない。看守である彼はここに収容される全ての人間の素性を知っているはずなのだ。それでもそんなふうに言える彼は本当はお人好しなのだろうと思った。ただ今度は言わなかった。そこに理由は無かった。
そこから彼を見ていない。彼は私が此処に入った頃から食料の配膳を行っていたので、つまるところ私はその間飲まず食わずでいる。看守の来た数でおよその日々を数えていたので、あの日から何日経ったのかは分かっていない。しかししばらくの間が空いているにも関わらず、空腹や渇きは感じなかった。まあ、看守の配膳が七百六十を超えても尚何も無い部屋で日々を食い潰せる人間に対して今更常識を求めたとて仕様のないことだろう。元来人を殺めて心を痛めぬほど壊れている私に当たり前を要求するなど土台無理な話である。
彼の月の話を思い出すうち、一つ思い出したことがあった。三十二人目を殺した時、本棚から滑り落ちた一冊の本のことである。それは昆虫図鑑で、私は何故かそれを手に取って眺めていた。少年少女に向けて平易に書かれた文章は、識字は出来ても難しい漢字を読めない私にとって丁度良かった。
目を通すうち、あるページが目に止まった。アリジゴクと書かれたその虫は、チョウだとかの他のものとは一線を画していて、美しさとは無縁の見た目をしていた。それはアリを食べて生きていて、アリと名前は付いていてもアリとは無縁の生き物らしい。ヒトゴロシである私は、妙にその名に親しみを覚えた。次のページを開くと、今度は透き通った翅を持つ昆虫が大写しになっていた。読めばそれはあのアリジゴクが成長した姿らしい。ヒトゴロシである私はあんなふうに美しくはなれない。羨ましさは無いが、その姿には心惹かれた。
ウスバカゲロウと書かれたそれは、夜に飛ぶらしい。探すわけでもないが、真夜中の部屋からベランダへ出て外を眺めると、そこには小さな月がぽっかりと浮かんでいた。街灯の光に負けくすんだように弱々しく光る月に、私は特段の魅力も感じなかった。
然しながら、彼の迸る火花のような空への情熱に魅せられたのだろうか、私は死ぬ迄にもう一度月を見たいと思った。数にして凡そ四十三を殺して生き長らえてきた私が、初めて手の届かぬ望みを手に入れるに至ったのである。かくして、かの生物のように美しい翅は無いものの確かにヒトゴロシはその殻を脱ぎ捨てることとなった。そのまま月光へ羽ばたかんとするこの命はしかし、その願いを叶えぬままに散るのだろう。
目を閉じればこの世界とはお別れだと本能的に悟ったが、眠気に逆らう理由には少しばかり弱かった。寝転がった硬いマットレスで、私が薄汚れた天井を見上げるのは七百九十回目である。私は何の躊躇いもなく目を閉じた。示し合わせたように白色灯が消えて、そこには物音一つない暗闇だけが残っていた。金網の向こう、二畳半の独房の話である。
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