潰したい、その背中。
夏檸檬
第1話
それにしても暑い。どうしようもなく暑い。
街路樹の葉も少しづつ色づき始め、季節は秋の到来を感じさせている。にもかかわらず、気温は三十三度を超えているそうだ。首筋に垂れた汗が背中にまで流れ、また僕のTシャツを湿らせた。未だ衰えない日差しによって熱せられたアスファルトからはじりじりという効果音が今にも聞こえてきそうである。蝉の声が煩い。
オフィスワークで凝り固まった身体を動かそうと散歩に出たのだが、想像以上の暑さである。地球温暖化の原因である人類に憎悪を向けるが、自分もその一人であることに気付いた。
熱中症の危機を感じた僕は、たまらず近くの木陰にあったベンチにどっかりと腰を下ろした。小さなウエストポーチを開け、ペットボトルを取り出す。キャップを回し、中の水を勢いよく喉に流し込んだ。ついさっきまで冷蔵庫に入れてあった水は、オーバーヒートした僕の体を一気に冷ます。
「慣れないことは急にするもんじゃないな」僕は小さく呟いた。家を出て1㎞ほどしか歩いていないのだが、暑さと共にのしかかってくる疲労は長年の運動不足を痛感する。刹那吹いた風がとても心地良かった。
嘆息。
そのまましばらく休んでいると、音も無く僕の剥き出しの足に近づく小さな黒い点を発見した。どうやら蚊のようである。名前はまだ無いようなので今つける。剛とかどうだろう。
しかし久し振りに見た。七、八月の夏本番には見た記憶が無いのだが、九月になりやっと巣から出てきたようだ。昔はもっと早い時期から飛び回っていたような気もする。これも地球温暖化の弊害か、と感じたが、よくよく考えればもともとこの時期から飛び回っていた気もする。
自分の中で「秋の風物詩」に変わりつつある蚊——もとい剛は品定めをするように僕の足の周りをグルグルと回った後、素早く僕の足に飛びついた。そして躊躇なく血を吸い始める。正直あまり美味しそうではない。
ならばこちらも、と素早く叩き潰そうとした時、ふと頭にある考えがよぎった。僕の中の天使が言う、「相手の事情も考えずに殺してしまうのは可哀想ではないか?」と。
体の大きさに関係なく命の価値は皆同じ、という言葉もあるし、蚊だって本当は血なんか吸いたくないという話を聞いたこともある。相手の事もろくに考えず命を奪うのは人間性を疑われるのではないのだろうか。他の蚊に。よくよく観察してみればこんな声が聞こえてきそうである。
「いやーすみません。私も吸いたくて吸っているわけではないのですよ、美味しくないですし。お腹の子を産むために仕方なく人間様の血を頂戴している訳でして……。それにつがいの雄が血を持ってこいと五月蠅いのです。こちら側の意図も汲んでくださると嬉しいのですが……」蚊が五月蠅いって言うのちょっと面白いな。蚊なのに蠅。
言葉遊びは置いといて、そう考えれば少し蚊にも同情したくなる。雄に血を持ってくることを強要され、吸った血で膨らみ重くなった体を揺らしながら巣へと帰る雌——。蚊の社会もかなり大変なのかもしれない。この蚊も申し訳なさそうな顔をしている可能性もある。
そういうことなら今回だけは見逃してやるか……と思い、潰そうと持ち上げた手を下ろす。そして、相手の事を考えられる自分優しいな、と軽く自己陶酔に浸った。しかし、そこでまたある考えが飛び出した。今度は僕の中の悪魔が囁く、「それはお前の妄想だろうが。こいつ、お前の事を嘲笑ってるんじゃねえの?」と。
悪魔の言うことが本当であれば、この蚊は僕の考えを見透かした上で悠々と血を飲んでいるということだ。「この人間も愚かだな。他のやつと同じようにガンガン飲ませてくれる。ああ血旨ぇ」……何だこいつ、段々憎らしくなってきた。こっちは親切心から飲ませてやってるのになんだその態度は。文字通り潰されたいのか。ニヤニヤ笑いながら美味しそうに血を飲む蚊の顔を思い浮かべるとふつふつと怒りが沸き上がってくる。
しかし申し訳なさそうな顔をしている可能性も捨てきれない。同種族である人間の思考さえ読めないのだから、言葉も分からない蚊の考えなど分かるわけがない。顔がどこにあるのかも不明瞭である。
都会の雑踏の中で、僕と剛との心理戦が繰り広げられる。空気中で互いの視線が交錯する——。そんな気がした。
その時である。
「ごちそうさまー」もう用は済んだとばかりに剛はどこかへ飛び去って行ってしまった。呆気にとられた僕は間抜けな顔でその背中(?)を見送る事しかできない。小さなその姿はすぐに景色と同化して見えなくなってしまった。また一瞬の風が吹く。今度は涼しいというより冷たく感じた。その風が急に僕を冷静にし、たかが蚊に対して心理戦を仕掛けていたことが急に恥ずかしくなった。一人赤面する。
どこかから声が聞こえた。
「よし、一発! マジで蚊迷惑なんだけどー。うわ、気持ち悪っ。なんか血出てきた」
「蚊って病気とか運んでるから殺した方がいいらしいよ。っていうかそろそろ引っ込んでくれないかなー」
……。
嘆息。
噛まれたところはまだ痒くない。潰されたのが剛でないことを祈る。
潰したい、その背中。 夏檸檬 @naturemon
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