空白の乙女が忍び寄る
救急外来にツララは駆け込んだ。
いいよいいよと遠慮するコトナの手を引き、タクシーまで使って病院に来たのだ。
大丈夫か? と問われれば、絶対に「大丈夫」と言う。
平気? って聞いたら、やっぱり「平気だよ」って言う。
ツララのかわいい奥様は、常にそういう人間なのだ。
そして、そこに甘えていた自分とツララは決別したい。
だが、そういう
「ただの疲労ですな。疲れがでたんでしょう」
医者にジト目でそう告げられて、ツララは顔が熱くなった。
多分、耳まで真っ赤になっているし、苦笑する看護師さんの視線も痛い。
そう、妊娠の
検査室から出てきたコトナも、むくれた
露骨に
「ど、どうも……先生、ありがとうございました」
「うんうん、とりあえず奥さんを大事にしてあげてください。あと」
「あと?」
「まあ、そっちは調べた訳じゃないんだけど……普通の疲労じゃない感じなんだけどねえ。でもま、主婦も意外と重労働だし、旦那さんがしっかりしないとね」
壮年の医者は一瞬、鋭い目付きを見せた。
だが、すぐに先程の渋い表情になる。
ツララはコトナと一緒に一礼して、診察室をすごすごと
酷くいたたまれない気分のまま、カーテンの外へ出て扉を開く。
廊下に出た瞬間、脇腹にポスンとコトナの
「ご、ごめん、コトナさん。俺、つい」
ポスポス、ドスン、ドスドスン。
「いや、ちょっと痛い、痛いよ」
「もーっ、だから大丈夫って言ったのにっ! それにねー、そんなにすぐに赤ちゃんできたりしないから!」
「だ、だよね! でも、コトナさんの『大丈夫』が、俺は心配でさ」
「……それは、そう、かも、だけど……心配かけて、ゴメン」
病院の中も閑散としていて、廊下は酷く薄ら寒い印象がある。
けど、救急外来の出口に向かえば、そっとコトナが手を握ってきた。
思わずビクン! と身を震わせてしまったが、おずおずと握り返す。
「ツララ君、ありがと。本当は嬉しいんだぞ? でも、でもね……さっき、ちょっと」
「実家のことは、一緒にゆっくり考えようよ」
「うん……」
「あと、詳しい事情はわからないけど、コトナさんは誰のためでもなく、自分のために自分を大事にしてほしいんだ。子供のことだってそうだよ」
「わたしのため……うん、わたしたちのため、だよねっ」
「そうそう。前時代的な考えとは距離を置いてさ、これからはまず、二人のこれからを大事に、大切にしよう」
「三人になっても、四人になっても、もっと増えてもいいよ……それは、うん、わたしずっとそう思ってる。ずっと、想ってるんだから」
なんだか少し、コトナにも元気が出てきたみたいだ。
魔法少女の名門一族というのは、やはり凄いのだろう。多くの魔法少女が十代を終える前後で引退する中、まだコトナは現役最強の力を維持している。
だから、引退を迫る数字が刻まれていても……彼女は戦いをやめない。
そして、コトナの生まれ育った家は、彼女を魔法少女としてしか見ていなかった。
それがどんなに寂しいことか、ツララはようやく今になって理解したのだ。
「とりあえず、帰ってご飯にしよっか。ふふ、でもおかしいの。ツララ君ってば、あんなに
「いや、それはもう、ハイ……スミマセン」
「ううん、やっぱ旦那様に大切にされるの、すっごく嬉しいから」
二人で歩くリノリウムの床が、ペタペタとスリッパの音だけを反響させる。
静まり返った病院の、ある種
このまま、穏やかな時間が続けばとツララは思う。
同時に、魔法少女の戦いが終わらないことも知ってしまった。
そんなツララに、素直にコトナが秘密をまた一つ打ち明けてくれる。
「あのね、ツララ君。わたし……
「あ、うん。それ、気になってた」
「わたしの杖魔は、クナト。大昔からずっと、
そういえば先程、八十神家の使いの老婆が言っていた。
クナトという名は、かつてコトナのパートナーだった杖魔の名前だったのだ。
そしてそれが過去形で、今はコトナは一人きりである。
「お母さんの代、おばあちゃんの代、そのまた先代からずっと……クナトは八十神家の魔法少女を支えてくれてた」
だが、戦いの中でクナトは
自分を守ろうとした、そう言ってコトナは寂しそうに笑った。
また、この笑顔に
そして、切ない
「でも……そんな時、ツララ君に出会ったの」
「えっ? じゃ、じゃあ、初めて会ったあの時……もしかして」
「ふふ、そうだよ? わたし、魔法少女のパートナーは失ったけど……人生のパートナー、見つけちゃった。だからね、クナトのためにももっと、ずっと、戦うの。……戦い、たかったの」
彼女ももう、知っているだろう。
自分に既に、残された時間が少ないということを。
それでも、決して覚悟を
そういうコトナを好きになってしまったからには、ツララにも決意があった。それは小さく些細な気持ちだが、強く心に念じて揺るがないと思いたい。
「コトナさん、あの」
「ん、言わないで。わかってる……でも、絶望と戦う魔法少女が、絶望なんてしちゃ駄目。それにわたし、全然絶望してない。だって、こんな格好良くてかわいい旦那様がいるんだもん」
ギュム、とコトナが腕に抱き着いてきた。
正直ちょっと照れるし、まだまだ彼女を支えきれてない自覚はある。先程まで、彼女の実家の事情も詳しくしらなかったのだ。
でも、これからは違うし、変えていきたい。
コトナが思ってくれてるような男に、なる。
ツララが決意を新たにしていた、その時だった。
突然、静かに声が響く。
「……お姉ちゃん、病気? じゃないよね……じゃあ、赤ちゃん。赤ちゃんが、できたの?」
小さな女の子の声だ。
振り向けば、パジャマ姿の少女が立っている。
その手には、複数の薬品を揺らす点滴スタンドが握られていた。
瞬間、ツララは思わず「あっ」と声を漏らしてしまう。
純白の少女だ。
白いニット帽を被って、白いパジャマに白い肌。間違いない、髪型こそ違うが例の魔法少女である。よく見れば、細かな装飾こそ違うが、持っている点滴スタンドは彼女の杖を
少女は、三日月のような白さとは裏腹に暗い目を向けてきた。
「お姉さんたちは、夫婦? 家族、なんだね……いいなあ」
だが、コトナはツララから離れると彼女に歩み寄った。
「ふふ、そうだよ? わたしたちは夫婦で、赤ちゃんができたと思ったんだけど……旦那様の勘違いだったの」
「そう」
「
「うん。ずっとここにいるの」
「治療、頑張ってるんだね。
「……ううん。もういいの」
「えっ?」
不意に、少女の気配が暗く
一瞬で空気が変わったように感じて、それが一般人であるツララにも伝わってきた。当然、コトナは異変を感じて一歩後ずさる。
だが、少女は
口元を
「よかったね、コトナ。赤ちゃん、できてなかったんだね」
「――ッ! ど、どうしてわたしの名前を」
「有名だもの、コトナは。魔法少女になるとね、わかっちゃうんだ……それに、よかったよね? 赤ちゃんができたら……戦えないし。それに、こんな世界に生まれる赤ちゃんが、かわいそう」
ツララの背筋が、まるで凍った電流でこすられたように
コトナも、初めて見せる
そんな中、
だが、その背後に年配の女性看護師が現れた。
「まあ、ここにいたのね。さ、マインちゃん。部屋に戻りましょう?」
まるで実の母親のように、女性が浮かべる表情は温かい。心から、マインと呼ばれた少女を心配していたようだ。
だが、振り返るマインの横顔は、患者というよりはまるで死体のようだ。
「……ごめんなさい、看護婦さん。少し、散歩をしてたの」
「そう。少し落ち着かなかったのね。でも大丈夫よ、私たちスタッフを信用してね」
「ん、そうしてみる」
「あら? こちらの方たちは」
魔法少女の存在は、世界の秘密。
すぐにツララが、コトナの前に出てフォローの嘘を口にした。
「俺たち、病院の中で迷っちゃって。でも、マインちゃんが案内してくれたんです」
「そうだったのね。偉いわ、マインちゃん。でも、先生も心配するから戻りましょうね」
「ありがとう、マインちゃん。じゃあ行こうか、コトナさ――」
その時だった。
不意に建物が揺れた。ビリビリと窓が震えて、夜の
断続的に激震が襲って、思わずツララはコトナに駆け寄った。肩を抱けば、かすかに震えている……それは、最強の魔法少女が初めて見せる
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