地獄の一夜が明けてゆく

 修羅場しゅらばいたりて、修羅にる。

 修羅をも喰らう羅刹らせつとなる。

 そういう痛めのキャッチフレーズを心に呟いて、ツララはひたすらに仕事へ没頭した。そうせねばこなせない作業量だったし、精神的にもかなりキツかった。

 ただ、逃げはしなかった。

 コトナのことを一瞬忘れても、彼女に合わす顔がないなんて状況は御免ごめんだったのだ。

 そして、夜が更けて、明けてゆく。


「……うし、マスターアップ完了です」


 ツララが振り向くと、そこにもう同僚たちの声はなかった。

 皆、疲れてデスクに突っ伏している。死屍累累ししるいるいというやつで、自分ももうすぐその一人に加わりそうだ。

 酷く眠くて、疲れで身体が重かった。

 だが、ツララの言葉に一人だけ元気な人間が笑顔を向けてくれた。


「ありがとう、お疲れ様。……ふふ、まさか本当に一晩でやり遂げてしまうとはね」


 直接の上司であるナギリが、唯一の生存者だ。

 そして、ピンピンしている。

 肉体は勿論もちろん、気持ち的にも凄くタフな女性だとツララは思った。ある意味では、コトナと同類かそれ以上のメンタルである。

 ツララがサーバにアップしたデータを、ナギリは確認しながら話し出す。

 思えば、同じ部署にいてもこうして何気ない会話を交わすのは初めてだった。


「ツララ君、納品には私が向かおう。うん、大丈夫そうだ。それと」

「はい? なにかありますか、まだ」

「いや、君は意外と体育会系なのかな。いい仕事だったし、なかなかの根性だったね」

「ど、ども」


 なにげない言葉も、疲れた脳味噌の中では意味を求めてしまう。

 なんてことはない言葉のやり取りだったが、自然とツララも饒舌じょうぜつになった。


主任チーフ、なんで……どうしてみんなを、下の名前で呼ぶんです?」

「ん? ああ、気にさわったのなら謝るよ。なに、深い意味はない。けど、部下には責任を持ちたがるたちでね。自分なりの流儀さ」

「はあ」


 静かな寝息だけが、輪唱のように連なり響く。

 ダウンした同僚たちを尻目に、ツララは椅子に座り直した。背もたれを抱くようにして、ぼんやりとナギリを眺める。

 外はもう、夜空が白んでいた。

 もうすぐ朝が来る。

 また一日が始まるのだ。

 そんな時、モニターから目を離さずに突然ナギリが意外なことを口にした。


「ツララ君、魔法少女って知ってるかい?」

「え? あ、はい」

「……意外な返答だな。まあ、そう呼ばれてる女の子たちがいるんだ」

「よく御存知ごぞんじで。俺も知ってますよ」

「ふふ、君は何者だい? まったく、面白い男だよ」


 キーボードをタイプしながら、ナギリは静かに語り始めた。

 その声がまた、普段の凛々りりしくすずやかな印象とは違って、どこか別人の顔を覗かせる。そして、魔法少女という言葉の異質さ、非日常のニュアンスがどこか麻痺している時間帯でもあった。


「私は学生時代はチアをやっててね。ツララ君は?」

「あ、剣道です。小学校の頃から大学まで、ずっと。まあ、大学入りたての頃まではやってましたね」

「ふむふむ。なるほど、若いのに時々妙に達観して見えるのは、武道の経験があったからか」


 ナギリが珍しく、クスクスと笑う。

 対して面白いことを言ったつもりはなかったが、疲れ切った心身に妙に染み渡る。まるで、勝利の女神にねぎらわれてるような気分になった。

 けど、本当の女神は家で待っている。

 こうしている今も、コトナは心配してくれているかもしれない。

 だが、ナギリは納品用のデータを圧縮しつつ話を続けていた。


「頑張っている人を応援するのが、私は好きだ。そして、絶対に応援しなきゃいけない人たちに出会った。今はもう、彼女たちは見えないし、私も彼女たちと並んで戦えなくなった」

「そうだったんですか」

「本当に驚かない奴だな、君は」

「いや、まあ……疲れてもいますし、それに」


 それに、知っていた。

 いつもナギリは、ツララたち契約社員のことを気にかけてくれる。時には、社の意向にそむいてまで守ろうとしてくれるのだ。

 以前から少し不思議だったが、合点がいった。

 彼女にもまた、守りたいものがあったのだ。

 そしてその中に今、自分がいる。

 その事実ががツララに、じんわり温かく浸透してくるのだった。


「魔法少女たちは今も、この世界のどこかで戦ってる。そこから零れ落ちた人間も、着地した先でやっぱり戦ってるのさ。生きることはある意味、戦いだからな」

「ですね。でも……俺はあの時、逃げちゃいましたよ」

「剣道の話かい?」

「ええ、まあ。地元じゃ負けなしの天才少年が、大学に行ったら並以下だったって知った……そんなとこです」


 天狗てんぐになってたかと言われれば、完全には否定できない。

 ただ、コツコツ積み上げた自信が一瞬で砕け散ったのは確かだ。

 そして、立ち直れないまま自分で剣を手放し、気付けば就職活動にも失敗して、この有様である。

 それでも、今の自分ならもう逃げ出さないだろう。

 今夜の徹夜仕事だって、死ぬほど嫌だったがやりげたのだ。

 あの時、剣道に背を向けて逃げた。

 その悔しさやみじめさを知るからこそ、今があると思いたい。


「私は、同じ会社に待遇の違う二種類の社員……正社員と契約社員が存在する現状は、いびつだと思っている。けどね、世の中は今は、コストをカットできる人間ばかりが出世する」

「俺たち、本当に安いんですかね?」

「安い。捨て値で買い叩かれてるようなもんだ。私は、そういうのは嫌だなと思った」


 同時に、ナギリは「よし、完璧だ」と小さく呟く。

 そして、ようやく止めた両手を組んで、頬杖ほおづえを作って形良いおとがいを乗せる。

 改めてナギリは、眼鏡めがねの向こうからまじまじとツララを見詰めてきた。


「ツララ君、この会社での仕事はどうだ?」

「忙しいです。ただまあ、給料はそこそこ悪くないかなって」

「楽な仕事なんてないさ。ただ、むくわれなさ過ぎる仕事は、これはいけないよ」


 こんな朝と夜の狭間はざまだからだろうか?

 今日のナギリはやけに親しみを感じるし、その言葉はとても穏やかだ。才気にあふれるキャリアウーマンの印象が、今だけは違って見えた。

 だからついつい、ツララも言葉に熱がもる。


「例えば、ですよ? 例えば仮に……その、魔法少女とかってのがいるとして」

「いるさ。本人が言うんだ、間違いない。……おっと、これはいけないな」

「ええまあ、聞き流しますけどね。で、魔法少女たちは、世界を守って戦ってることを……どう思ってるんでしょうか。その、幸せなのかとか、辛くないのかとか」


 一瞬だけナギリは、考え込む素振りを見せた。

 だが、すぐに明瞭な言葉が返ってくる。


「辛いさ、戦いは。それでも、誰かの幸せは守れる。それが自分の幸福とは無縁でも、彼女たちにとってそれは些細ささいなことさ。問題ですらないんだと思う」

「……強いっすね、それ。ガチじゃないすか」

「ああ、ガチだぞ? まあ、もしそういう女の子に会ったら、優しくしてやるといい。さて!」


 ナギリは立ち上がると、大きく伸びを一つ。

 スレンダーながらも均整の取れた肉体美が、スーツの上からでも感じられた。この激務の一夜を共に過ごしたのに、全くくたびれた様子も見せない。

 ツララなんかはもう、シャツはよれよれで疲弊の極みである。


「ツララ君、今日はもう帰って寝たまえ。私の方から全員に有給休暇を贈らせてもらうよ」

「へ? でもそれって」

「徹夜明けで仕事して、大きなミスをされては困るしね。今寝てるみんなも、起きたら帰宅するように言っておく。私は納品用の書類を片付けたら、少し仮眠するさ」

「……ちょっと格好良過ぎませんかね。ずるいなあ」

「いい女はずるいのさ。勉強になっただろう?」

「いえ、前例を知っているのでそれは別に」


 不思議と、今のナギリに妻の面影おもかげが重なる。

 全然同じタイプじゃない、真逆の人間だと思えるのに……根っこが同じような気がした。そして、その意味もナギリの過去も容易に想像できたが、敢えてそれを言葉にはしない。

 ただ黙って立ち上がると、ツララは深々と一礼してから顔をあげた。


「んじゃま、帰ります」

「ん、お疲れ様。細君さいくんを大事にするんだぞ?」

「そりゃもう、本当ならがくに入れて飾っておきたいくらい大事に思ってますよ」

「あれか、君の奥様は二次元なのかい? 額って」

「まあ、限りなく二次元の創作物に近い存在ですが、ちゃんと現実ですよ」

「ちぇ、そうか……惜しいな」


 そう言ってナギリは、ニシシと笑った。

 そこには、連帯感で結ばれた仕事の仲間、そして信頼できる上司の笑顔があった。初めてツララは、彼女を社の人間である以上に身近に感じた。


「じゃあ、お先です」

「うん。ああそうだ、ツララ君。てんやわんやのこの騒ぎで忘れていたんだが」

「な、なんです? この時間に残った作業があるとか、やめてくださいよぉ」

「そういう話じゃない。君たちの仕事は完璧だったよ。で、だ」


 ツララは意外な言葉に驚いた。

 一発で目が覚める程の、まさに瓢箪ひょうたんから駒とでも言うべき話だった。

 ささやかな夢が今、昇る朝日に照らされ輝いている気がした。

 それは、願い続けた夢が叶って生じる、希望の光に思えるのだった。

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