ACT.04「零れ落ちる刻の輝き」

刻まれ、刻み込まれる、数字

 その夜、二人はやっと夫婦になった。

 だが、ツララにその記憶がほとんどない。

 湯上がり、二人でコンビニまで行って缶ビールを買った。ちょっと奮発して、ワインも。ツララのつたないカレーで夕食、コトナはとても喜んでくれた。

 ほろ酔い気分でいろんな話をして、早々に寝室に連れ立って歩いた。

 くちびるを、次いで肌を重ねた。

 それを覚えているのに、記憶が酷く薄らいでぼやける。


「あの紋様もんよう……もしかして、コトナさんは」


 そう、ずっとツララは考えていた。

 至福の時に見てしまった、コトナの胸の数字を。

 それは彼を、絶望のどん底に叩き落とした。

 改めて、数字が持つ残酷な一面を思い知らされた気がする。

 あれからもう、ツララはその1という数字が頭から離れなくなっていた。こうして自宅の居間でくつろいでいても、テレビの内容もお茶の味も全く入ってこない。

 月曜日の夜、ツララはまんじりともせず暮らしていた。


「ツララさん、チャンネル変えてもいいですか? ……ツララさん?」

「……へ? あ、ああ! うん! おかわり、もらおうかな」

「は? お茶なら自分でいれてください。なんか変ですよ? もともと変でしたけど」


 相変わらずリンカは、ツララにだけは手厳しい。

 それでも、ここ最近は随分と打ち解けてきた気がする。

 ただ、心ここにあらずといった雰囲気のツララには、流石さすがに違和感を感じてか身を寄せてくる。普段は寄り付きもしないリンカが、そっと手を伸べてきた。

 ひんやりとした小さな手が、ツララのひたいに触れる。


「熱は、ないですね。なにかあったんですか? 会社でいじめられたとか」

「いや、そういう訳じゃ」

「なんか、変です。いつもの安心するおかしさじゃないですよね。本当に、どうかしたんですか? それとも、どうかしちゃったんですか?」

「やめて、ちょっと傷付く……」


 容赦がないというか、自分をなんだと思っているんだろう。

 でも、リンカなりに心配してくれてると思えば、ツララも僅かに心が落ち着く。

 そして、チラリと視線を横滑りさせた。

 キッチンの方から、上機嫌な鼻歌が聴こえる。

 それも、割と調子っ外ちょうしっぱずれれで脳天気なやつだ。

 コトナは丁度、夕食の後片付けをしているようだった。

 そのことを確認してから、ツララは深呼吸して表情を引き締める。


「ちょっと、いい? リンカちゃん、耳貸して」

「内緒話ですか? なんですか、もう」

「いいから、ちょっと! 相談に乗ってくれよ」

「あたし、高いですよ? 内容次第ではおごってもらいますからね」

「君ね、俺の財布の中身なんて……ま、まあ、それより」


 渋々聞く姿勢を見せたリンカが、密着してくる。

 そのかわいらしい耳に、おずおずとツララは悩みの種を打ち明けた。

 そして、はっきりと感じた。

 リンカが息を飲む気配を。


「ちょ、ちょっと、ツララさんっ! それ、本当ですか!?」

「シーッ! 声が大きいよ、リンカちゃん」

「だって、そんな……コトナ先輩がっ!」

「だからさ、俺が見たのってそうなの? 魔法少女って、そういうもんなの?」


 にわかに居間の空気がささくれ立つ。

 キッチンから呑気のんきな声が響いたのは、そんな時だった。


「あっ、ツララ君。リンカちゃんも。プリン、買ってあるんだけど……食べる?」


 咄嗟とっさにツララは、慌ててリンカの口を手で封じた。

 リンカもまた、ツララの口を両手で抑える。

 そして、瞳で頷き合ってからそっと互いに離れた。


「あー、今日はデザート食べられないなー! お腹いっぱい、美味おいしいもの食べたからなー」

「そ、そうですねー! コトナ先輩の料理、ほんっ! とぉ! にっ! 美味しいですからー」


 見事な棒読みのデュエットだったが、なんとかやりすごせた。

 コトナは褒められて嬉しいのか「もー、おだててもなにもでないぞー?」と笑っていた。

 そして、テレビの音量を少し上げてから二人は額を寄せる。

 ツララとしても、ずっと気になってしかたがないのだ。

 そしてそれは、情報を共有したリンカも同じらしい。


「確かに見たんですね? コトナ先輩の紋様に、数字を」

「あ、ああ。でもさ、1って……カウントダウンにしても、いきなり1って」

「逆に考えてください。いよいよ1まできたってこともありますよね」

「じゃあ、以前から? でも、前に見た時は全然違う形だった」

「なに見てるんですか、コトナ先輩の胸を見たんですか? やだ不潔ふけつ、変態!」

「だって俺、コトナさんのおっとだもん!」

「だもん、じゃないですよ。かわいく言ってもキモいです、うわやだ、マジ最悪」

「……すげえへこんできた」


 だが、溜め息と共にリンカはそっと離れた。

 そして、あろうことか不意に着ているシャツに手をかける。オーバーサイズのTシャツの、その襟元に手を突っ込むと、グイと強く引っ張った。

 鎖骨が顕になって、白い肌が眩しい。

 そして、彼女の胸元にも青い光が静かに輝いていた。

 リンカも魔法少女、そのあかしである紋様を刻まれている。


「これが、リンカちゃんの?」

「ええ。読めますか?」

「うん……8だ。数字の8」

「そうです。ここに来た時は11でした。……もうすぐ、あたしも0になるんです」

「そ、それって」

「魔法少女としての力を失うってことですね」


 そう言って、リンカはTシャツを手放す。

 彼女は以前から、引退の恐怖と戦っていた。リンカにとっては、ディバイジャーと戦わなくて済むことよりも、戦えなくなることの方が怖いのだ。あるいは、ディバイジャーそのものよりも怖いのかもしれない。

 そんなリンカを気遣うからこそ、コトナは夫婦の愛の巣に彼女を招いたのである。


「あたし、ちゃんと家を出て歌で食べていきたいんです。でも、そんなの夢見がちな話、絵空事えそらごとだってわかってる」

「そ、そんなこと、ないよ! ……難しいとは、思うけど」

「ですよね。ツララさんもそう思いますよね。学生の部活、バンドごっこじゃ通用しない……プロの世界は甘くない。でも、どれだけ甘くないかは、あたしが飛び込んで知りたいんです」


 珍しくリンカが、自分のことを話してくれる。

 気付けばツララは、その言葉に聞き入っていた。


「両親は、普通の一般家庭のパパとママ、どこにでもある家だから。ただ……あたしの歌を、一度も聴いてくれない」

親御おやごさんはやっぱり、大事な娘さんの幸せをどうしても、その……堅実に手堅く考えてしまうんだろうな。冒険しないでほしい、冒険で失敗しないでほしい、ってさ」

「でも、あたしは歌いたい。そして、歌が力になるなら、魔法少女でいたい。コトナ先輩みたいに、もっと世界を守りたい。……パパもママも、守りたい」


 それは、表と裏の青春、その両方を激しく燃やす少女の本音だった。

 だから、ツララは決して笑えないし、誰にも笑わせたくない。

 コトナのことで一緒に胸を痛めてくれる、そんなリンカの存在をありがたく思う。そして、そんなリンカもまた自分に突きつけられたカウントダウンと戦っていた。

 数字が持つ、確定された未来。

 その増減に人間は、あらゆる局面で一喜一憂いっきいちゆうする。

 人類は常に、数を数えることで進歩し、文明を広げてきた。

 だが、その数字が今は、あらゆる場所で人々を追い立て脅かしている。

 その最たるものが、ディバイジャーという訳だ。


「あの、ツララさん。コトナ先輩だって、とっくに気付いてると思うんです」

「それを隠しもしないし、話題にもしないってことは……」

「あたし、思うんです。もうコトナ先輩、十分に頑張った、しっかり戦い抜きました、よね?」

「う、うん。それは……だって、15年だもんなあ」

「コトナ先輩が引退したら、きっと、ううん、絶対。絶対、ツララさんと幸せになれると思うんです。悔しいけど、ちょっとありえないけど……お似合いの二人だし?」

「そこで疑問形なの、微妙につらい」


 でも、ツララは苦笑しつつ最後には心から笑った。

 それでリンカも、自然と笑顔になる。


「コトナ先輩の方が先に引退だなんて、ちょっとびっくりです。でも、年齢的に順当と言えば順当ですよね」

「そうなんだ。やっぱ、魔法少女って」

「はい。歳を取るごとに、言葉の力が弱まっていくんです。大人に近付く程、人間って数字ではっきり示されることが多くなるんですよね」

「うわ、実感……まあ、そうだよな」

「でも、コトナ先輩はそんな自分より、あたしのことを大事に思って気にかけてくれた。なら、あたしもコトナ先輩になにがしてあげられるか考えなきゃ」

「俺も、そうだな」


 そうこうしていると、プリンを手にコトナがやってきた。

 彼女は甘いものが好きで、今もちょっとだらしない笑みを浮かべている。


「二人ともプリン、食べないんだ? ふふーん、じゃあお姉さんが全部貰っちゃおうかな、なんてね。嘘、嘘、ちゃんと残して――」

「コトナさん! 俺のプリン、よかったら食べてください!」

「そ、そうです! あたしのプリンもあげます!」


 思わず声に力が籠もる。

 そして、前のめりになってしまう。

 ツララとリンカを交互に見て、一瞬コトナは固まりまばたきを繰り返した。

 だが、すぐにニコリと笑顔になる。

 そんな時の彼女はいつも、酷くあどけなく見えてツララは好きだった。


「えー、いいよぅ。二人ともプリン、とっときなよ。食べたくなったら食べればいいんだし。知ってる? プリンて美味しいんだよ? わたしはプリン、バケツいっぱい食べられるなあ」


 そう言って、コトナがツララの隣に座る。

 ちゃぶ台の上にプリンを置いて、そのふたをニッコニコの笑顔で開け始めた。

 その横顔を見て、自然とツララも不安を忘れてゆく。

 なにごとにも終わりはあるし、一つのことが終わったら次が来る。人生の終わりに紐付ひもづいているのは、呼吸と鼓動、我が身の命だけだ。

 コトナが魔法少女を終える時、それを受け入れ受け止められる男でありたい。

 ツララもまた、そうして青春の終わりを受け入れた人間だから……そう思えば、妻の笑顔が今日も眩しく思えるのだった。

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