一人、独りが、一つに向かう朝

 奥様は魔法少女。

 というか、魔法少女のままになってしまった。

 この驚くべき事実に、ツララは大いに困惑していた。

 同時に、少しホッとしたのも事実で、そんな自分が情けない。


「だってさ……あの姿なら、二人でどうこうなることもないしさ」


 今日も今日とて、ツララは出社しIDカードを首から下げる。

 周囲はもう、始業前だというのに多くの社員たちでごったがえしていた。本社ビルのエントランスは、無数の部門に所属する者たちが行き交う。

 あらゆる業種に食い込む、国内大手の広告代理店……その本社ビルともなれば、いわばここが日本の縮図でもある。

 そして、高い天井のフロアには恐らく、無数の見えないデータが飛び交っていた。

 数値化されて電波に乗り、世界へと拡散してゆく風が渦巻いているのである。


「初夜……まあ、当分はお預けですね、っと」


 エレベーターでいつものフロアに上がり、恐る恐る足を踏み出す。

 今朝はどうにか、例の常務にはつかまらなくて済んだようだ。あの御老人ごろうじんはよほど暇なのか、頻繁ひんぱんにここに来て契約社員に絡んでいる。

 ツララもそうだが、後輩のクロウなんがかいいカモにされているのだった。

 だが、IDカードを使って職場に入室すると、そこには普段とは違う空気がはなやいでいた。

 いつもは自分のデスクにいる面々が、何故なぜか部屋の隅に大集合している。

 しかも、どこか和気あいあいとした雰囲気が漂っていた。

 その原因を作った人間が、振り向くなり涼やかな笑みで迎えてくれる。


「やあ、おはようツララ君」

「あ、主任チーフ。おはようございます。なんです? なんの騒ぎかなって」

「フッフッフ、君も見給みたまえ! 契約社員にだって、相応の待遇が必要だと思ってね」


 このフロアの主任、朝宮ナギリは朝からノリノリだった。

 そして、彼女がお披露目してくれる家電製品に、思わずツララも驚く。


「あれ、冷蔵庫だ。えっ、これは」

「うん。ないと不便だろう? 他のフロアは各部署ごとに給湯室きゅうとうしつもあるけど、ここは仕事のための機材しか無いからな」

「いや、マジで嬉しいですけど……どうしてですか?」


 その質問に、ナギリはきょとんとしてから微笑む。


「労働環境の充足、これは上司の務めだ。君たちは仕事をこなすマシーンではないのだからな」

「はあ。いや、ありがとうございます」

「うんうん。そういう訳だから、各自で適当に冷蔵庫を使ってくれ。あと、クロウ君」


 そういえば、どうしてナギリ女史は契約社員たちを名前で呼ぶのだろうか。

 そしてそれが、誰にとっても不快でないらしい。

 ぼんやりと眠そうな顔で、クロウが自分を指差す。


「はい? 俺っすか」

「うん。勝手に他の部署の冷蔵庫を使わないように」

「うっす。いやまあ、ばれなきゃいいかなと」

「君、あちこちの女子社員ともうわさになっていたからな。飲み物は今後、ここの冷蔵庫を使ってくれ給え」

「はあ。まあ、あれはあっちが勝手に……それに、ばれなきゃ」

「私にばれたんだ、観念しなさい。フフッ」


 その後は、チームに軽く朝の伝達事項を話してナギリは行ってしまった。

 相変わらず忙しい人である。

 だが、たかだか冷蔵庫一つ、それも小さくてシンプルなタイプが一つ増えただけで……意外なことだが、職場の空気が変わった。

 なにより、今まで我関われかんせずで仕事だけしてきた同僚たちに、会話が生まれたのだ。


「いやあ、こりゃありがたいかなあ。冷たい飲み物がいつでも飲めるし」

「フォッフォッフォ、次は熱いお茶が怖い、なんてのう」

「やだ、徳田トクダさん。まんじゅう怖いですか? でも、こういうの全然なかったから」

「あとは給湯ポットなんかあるといいかな。俺、家に余ってるの持ってこようかな」

「冷蔵庫の上に電源タップを伸ばせば、そのポッドでお湯も沸かせますね!」


 ここは、契約社員だけが集められた場末の部署だ。

 老若男女ろうにゃくなんにょ、様々な事情を抱えた者たちが働いている。それぞれが皆、個人で、あるいは派遣会社を通じて契約し、与えられたタスクをこなしていた。

 ここには昇給もないし、ボーナスとも無縁だ。

 働き甲斐がいの有無は個人の感じるものだが、少なくともノルマの達成だけが求められていた。

 そんな中で、小さな冷蔵庫がわずかに空気を変えたように思える。

 ツララも勿論もちろん、嬉しい。

 眠気が襲ってきた時など、別のフロアの自動販売機に行かなくても済むからだ。


「で、クロウ。お前、なにかやらかしたのか?」

「あ、ツララ先輩。おはようござまっす。えと、まんじゅう怖いって、なんですか?」

「古典落語の話だよ。ほれ、早速仕事始めるぞ」


 ツララはいつも通り、クロウに缶コーヒーを放ってやる。

 丁度始業のチャイムが鳴って、皆が仕事に取り掛かろうとしていた。

 こころなしか、今まで無味無臭むみむしゅうだった空気が軽やかである。

 クロウもぼそぼそと呟きつつ、ツララの隣に座った。


「いや、ぬるいドリンクが駄目っつーか、他のフロアに冷蔵庫が沢山あるっつーか」

「セキュリティの問題もあるからな、気をつけろよ?」

「ウス。あと、毎朝ゴチです」

「さて、仕事をやっつけますか、っと。……グヌヌ、またダブりか」


 今日も今日とて、ツララのささやかな趣味が微妙に終わる。

 今朝はトヨタのスープラ80系だが、これもすでに所持しているミニカーだった。

 全12種にシークレットがあって、この一ヶ月で大半は集め終えている。だが、最後の2、3台が全く出てくれる気配がなかった。

 中身の見えない状態で缶コーヒー2本組にくっついてて、全くの運頼みだ。


「なあ、クロウ。俺、思うんだけどさ」

「はい? ああ、ミニカーっすか」

「全12種、シークレットも入れて13種ってことは、当たる確率は」

「7.5%チョイじゃないすかね」

「シークレットは弾数たまかずが少ないと見て、まあ、普通の車種が出るのは全部8%くらいだろ?」


 ノートパソコンを開いて立ち上げつつ、ツララはぼやく。

 別に、ミニカーを集めてコンプしなきゃ困る訳じゃない。けど、ついつい集めてしまうし、集めるからには全車種を揃えたい。

 揃えたら飽きて、それっきりになるかもしれないけど。

 それでも、毎朝のささやかな楽しみにしているのも事実だ。


「一ヶ月ちょっとで、もう20台は集めてる。けど、さっぱり出ないやつがあるんだよなあ」

「そりゃ、しょうがないっすよ。ゲームのガチャだってそんなもんでしょうし」

「確率ってやつは視覚化できるけど、その数字が見えてても全く希望が持てないよなあ」

「……そっすか?」


 ちびりと缶コーヒーを飲みつつ、クロウが意外なことを言い出した。

 それが普段の彼らしくなくて、ツララも思わず手を止めてしまう。


「見えても見えなくても、そういうのって存在してるっすよね。こう、上手く言えないんすけど」

「まあ、そうだな」

「数字が見えて安心する奴、数字が見えなくて怖いもの知らずな奴、それって人それぞれっていうか。あと、ツララ先輩は毎朝買って俺におごってくれる訳で」


 相変わらずぼそぼそと喋るが、クロウの言葉に妙な熱が感じられた。

 まるで、彼は自分に言い聞かせてるかのように言葉を連ねる。


「やらなきゃ可能性は生まれないし、やらない限りはゼロっすよ。……なんか、すんません。あ! べ、別におごってほしい訳じゃなくて!」

「はは、そうなのかぁ?」

「いや、はい。マジっす。でも、いいじゃないすか。世の中、そんなもんすよ」

「だな」


 数字が突きつけるのは、絶望か?

 数値化は全て、公平さと比較のために行われる。

 でも、そうやって引かれた線の上と下に人は分かれてしまうことが多々あるのだ。それも、自分の意思とは裏腹にである。

 それを『そういうものだ』と思えたなら、それは立派な大人だと思えた。

 ツララだって、わかっている。

 けど、運任せでミニカーを集め出すと、やっぱり確率が気になるのだ。抽選は公平でも、そこに使う運勢や運気はツララ本人にはどうにもならない。

 そう思っていると、頭上で声がした。


「男の子って、そういうの好きですよね。次のリスト、できてます。サーバにあげておきました」


 クロウと共に振り返ると、佐藤アイが微笑んでいた。

 彼女が言っているのは、ツララが握っているミニカーのことである。

 ツララは一瞬沈黙したが、すぐに「男の子って歳じゃないなあ」と笑う。


「ありがとう、佐藤さん」

「いいえ。私はじゃあ、次の作業に取り掛かりますね」

「うん、お願い」

「で……六波羅ロクハラさんは女子社員となにやらかしたんですか? あっ、ごめんなさい。ちょっと、少し、気になって……フフ」


 クロウはぽりぽりとほおを指でかきつつ、視線を逸した。

 だが、私語を交わしてる余裕も僅かに惜しいのが今の状況である。

 それはアイもわかっているようで、すぐに自分のデスクに戻っていった。

 ツララも早速、仕事を始める。


「……なんか、空気が変わったっすね」

「まあな。冷蔵庫があるなら、俺もコーヒーはデカいパックで買ってこようかな」

「あー、いいっすね」

「その場合、お前におごってやる義理もないんだが」

「えー、まじすか。ミニカーもっと集めましょうよ」

「はは、どうかなあ」


 すぐにツララは、仕事に取り掛かった。

 あくまで会社には、仕事で来ているのだ。求めるのは給与であり、求められるのも労働力、仕事の処理能力だけである。

 でも、少し嬉しかったのも事実だ。

 ここで働く自分たちに、健やかでいてほしいと思ってくれる人がいる。

 冷蔵庫が一つ増えただけで、それを大なり小なりみんなが感じてる気がした。

 夏場になれば、空調の効いたオフィスビルでも冷たい飲み物が恋しくなるだろう。

 そんな夏まで、自分の契約が続いてるかは、それはまた別の話なのだった。

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