大黒寺ツララの日常

 結局ツララは、昨夜もなにもできなかった。

 

 初めてコトナと家族になって、何度目かの夜が過ぎて朝になる。

 だが、押しかけてきたリンカをうとましくは思えない。かわいいオジャマ虫の登場で、昨晩はにぎやかな食卓を囲むことができた。魔法少女の出動もなかったし、突然新婚夫婦に一人娘ができたような、そんなほがらかな平穏が嬉しかった。

 それに、リンカの切実な現状を思えば、コトナが寄り添いたいと思ったのもうなずける。


「引退、か……それって、大変なことなんだろうなあ」


 満員電車で圧縮された自分を、人の流れでホームへと押し出すツララ。

 ずっと、リンカの抱える悩みについて考えていた。

 正確には、リンカの背中にコトナの未来を見ていた。愛する妻にもいずれ、魔法少女を引退する日が訪れるのだろうか? そもそも、二十代もなかばを超えた女性が、魔法少女をやってていいのだろうか?

 その答えは今は、わからない。

 ただ、リンカの力が弱まりつつあり、引退が近付いているらしいのだ。

 引退は……自分には苦い思い出なのも確かである。

 ツララも気にはしているが、今は通勤と仕事が大事だ。毎朝のルーティーン通り、周囲の背広組に混じってオフィス街を歩く。いつも通りコンビニで缶コーヒーの二本組を買って、本社ビルでは再びギュウギュウ詰めのエレベーターに乗った。

 ツララの勤め先があるフロアで、IDカードを出そうとしていた、その時だった。


「フン、いい身分じゃないかね? チミィ!」


 不意に、ねっとりあぶらぎった声が背を撫でる。

 振り向くと、そこには中肉中背の中年男性が立っていた。やや肥満体デブで、はげかけた頭部にチョビヒゲの紳士である。

 その紳士的とは思えぬ言動に、ツララは「おはようございます」と頭を下げた。

 朝からつまらない奴に掴まったなと思ったが、顔には出さない。

 この男は正社員、それも重役だ。

 こうして時々社員を、それも契約社員をいびるのを日課としている。


「チミねぇ、我が社が契約してやってるからには、もっとやる気を見せたらどうだね?」

「はあ、やる気ですか」

「契約社員たるもの、正社員より先に来て湯呑ゆのみやコップを洗い! お湯を沸かして! そういうね、チミ……気遣いというものはないのかね」

「えっと、すみません」


 冗談じゃない。

 遅刻になるような時間じゃないし、給料分以上に働く義理だってない。悲しいかな、ここではツララはよそ者エトランゼ……明日をも知れぬ外様とざまの契約社員だ。

 それに、正社員以上に働いている自負もあるし、厳しい待遇にも耐えてるつもりだ。

 面倒くさい事態に朝から滅入めいっていると、すずな声が差し込まれる。


「常務、まだ始業までは時間があります。このセクションは契約社員のみの部署なので……そもそも、正規も非正規もなく、社員は社員と私はとらえています」


 ボスのお出ましだ。

 しゅっとして見心地のよいクールビューティーが、二人の間に割って入った。そして、背にツララをかばうようにして笑顔を浮かべている。

 才媛才女さいえんさいじょにして女傑じょけつ、この部署を統括する主任チーフの御出勤である。

 名は、朝宮アサミヤナギリ。

 世が世なら出世コースまっしぐらなはずの、エースにしてエリート正社員様である。


「お、おおう……朝宮君、その、ワシは」

「ええ、ええ。わかっていますとも。常務、いつもありがとうございます。御指導御鞭撻ごしどうごべんたつまことに恐縮です」

「う、うむ! わかればいいんだよ、チミィ……じゃ、じゃあ、ワシはこれで」


 いそいそと常務は逃げ出していった。

 ツララは、内心ではこのおっかない女上司を尊敬している。他人にも自分にも厳しいが、論理と合理で仕事を仕切ってくれるからだ。残業だって、ちゃんと時間外労働に対する手当てを社に掛け合ってくれる。

 だが、それはそうとして……やっぱり少し、おっかない。

 そのナギリ女史が、カツ! とヒールを鳴らして振り返った。


「ツララ君、朝から災難ね。まったく……暇潰しにここに来られちゃ迷惑なのだけど」

「は、はあ。あ、えと、おはようございます」

「ええ、おはよう。ところで、例の案件はどうかしら? 片付きそう?」

「今日中に資料を纏めて提出します。もうデータはそろってますんで」

「じゃあ、よろしく。今日は外に出てるから、メールして頂戴ちょうだい


 眼鏡めがねのブリッジをクイと指で上げ、すずやかな笑みを残してナギリは去っていった。

 颯爽さっそうという言葉が、これほど似合う人間はいないだろう。

 その背を見送りつつ、ツララは自分のデスクへと向かう。周囲も皆、同じ立場の契約社員だ。まばらな挨拶に挨拶を返して、どうにか腰を落ち着ける。

 充電されっぱなしのノートパソコンを起動させると、すぐに隣へ向き直った。


「おはよ、クロウ。お前、今日も酷い顔してっぞ? ほら」


 同僚へと、買った缶コーヒーの片方をそっと渡す。

 コトンと缶が机に置かれた音で、天井を仰いで爆睡してた男が目を覚ました。酷く不健康な顔色で、目だけがギラギラしている。細面ほそおもての女顔で、これは美青年イケメンというものらしい。


「んあ……あ? ん……オス、おはよーございます」

「お前、いっつも眠そうだよな」

「ゴチです。……いやあ、ちょっと忙しくて。あざます」


 無気力全開の後輩、六波羅ロクハラクロウだ。

 妙な男で、プライベートについてはツララは知らないし、踏み入るようなこともしない。周囲にもあまり馴染なじめておらず、仕事もバリバリできる方ではない。

 だが、仕事への取り組みは真剣で、よく助けてもらっている。

 ここには、様々な事情を抱えた老若男女が集められているのだ。シングルマザーの女性もいれば、一度定年退職した老人もいる。皆、一ヶ月単位で契約してもらって、安い給料で働いているのだ。


「先輩、なんでいつも自分におごってくれんすか?」

「二本セットで買わないと、オマケがついてこないんだよ、っと」

「あー、そのミニカーすか? そういうの集める系っすか」

「そゆこと。……むむむ、日産R-32GT-Rがダブってしまったか」


 ツララには、これといって趣味はない。

 今は、打ち込むべきものもなく、日々生きてくために働くので必死だ。

 でも、守りたいものができた。

 愛する妻を守りたい。

 世界を守る妻を、自分だけが守れると思いたかった。思い上がりでも、たかだか契約社員の青年に許されていい、それは小さなプライドで矜持きょうじだった。


「クロウさ、免許持ってる? 車、欲しいよなあ」

「あー、自分持ってるっすよ。危険物にボイラー技士、管理栄養士――」

「自動車免許の話だって」

「大型特殊免許なら」

「……謎だなあ、いちいち君は」


 手の平に乗るスポーツカーを見下ろし、ツララは溜め息を一つ。

 できれば車が欲しいし、あれば便利だ。軽自動車でいいから欲しい。妻と二人でドライブデートだってしたいし、頑張ってやりくりすれば年に一度は一泊旅行くらいはと思っている。

 だが、維持費が捻出できないので、なかば諦めていた。

 駐車場代にガソリン代や保険代、車検のための貯金など、自家用車にはお金がかかる。

 往年のスポーツカーが好きなのだが、夢のまた夢だ。


「結局、夢でしかないよなあ。あーあ、マイカー欲しいよまったく」

「そっすか?」

「そうだよ、通勤だってもしかしたら満員電車から解放されるかもだし」

「いや、そうじゃなくてすね……夢でしかない、べつによくないすか?」

「ん?」


 始業のチャイムがなって、周囲は一斉に仕事モードに切り替わってゆく。

 クロウもようやくノートパソコンを開いて、作業に取り掛かった。そのままたどたどしくキーボードを叩きつつ、彼はぼそぼそつぶやく。


「夢だったら、それはそれで割といいっすよ。かなうかどうかは別にして、夢があるってだけで」

「……そっか。まあ、そう考えるといいかもな。夢のマイカー、ね」

「そんで、奥さんとドライブデートとかして、いいじゃないすか」

「こら、心を読むな、心を。うし! 昨日の続きから始めるか」

「ウス」


 俺たちには夢がある。

 自分で言うからには、クロウにだってあると思いたい。

 ささやかでも、小さくても、夢は夢だ。

 そもそも、夢みたいな花嫁と結婚して、夫婦になったばかりだ。焦らなくていいとツララは自分に言い聞かせる。いつか安定した仕事を得て、愛車を買おう。それが今の、当面の夢だ。

 そう思って、かばんに今日のミニカーをしまおうとした、その時だった。


「ん? あっ、しまった」

「どしたんすか? 先輩」

「いやあ、弁当を忘れてきちゃったみたいだ」

「いいっすねえ、愛妻弁当。いつも爆発しろって心の中で思ってるんすけど」

「口に出したろ、今。あーあ、ここで昼食代の捻出は痛いなあ」


 そういえば今朝は、バタバタしてしまった。

 ツララの家から高校に通うリンカにも、コトナはお弁当を作ってあげていたのだ。洗面所も混み合ったし、朝食もなんだかせわしなかった。

 コトナだけが、いつもの笑顔でマイペースなのだった。


「ま、しゃーない。クロウ、まずは仕事だ」

「顧客リストからでいいすか? 出来上がってますけど」

「そだな、片付けていこう」

「ウス」


 すでに周囲は、妙な静けさの中でキーボードを叩く音だけが響く。さながら外人部隊で、契約社員同士が親しく話すことなどはまれだ。私語を交わす程の仲にはなれないし、ツララとクロウの方が異質なのだ。

 明日をも知れぬ身、来月は誰が突然いなくなるかわからない。

 ツララだって、次の契約を更新してもらうために頑張っている。


「あれ、先輩……?」

「ああ、わかってる。今チェックしたが、いいんじゃないか? 次のリストは」

「いや、それ……弁当じゃないすかね。なんだ、ちゃっかり持ってきてるじゃないすか」

「は? いや、忘れて……た、はず、だ、けど? ……うん、俺の弁当だな」


 ふと見れば、山積みの書類とファイルの上に……いつもの弁当箱が乗っていた。鞄に詰めた記憶もなければ、会社で鞄から出した記憶もないのに、だ。

 そして、その上には鎮座ちんざしているのだった。

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