羽吉と駒坂が胸中を吐露し合った、その翌日である。


 北五十里と中屋敷は日曜日なのに登校する羽目になっていた。法流院から呼び出しがあり、部室に来たものの、家主はおらず「しばらくここにいてもらおう」とのメモのみが残されていた。岩波文庫の『孫子』がここぞとばかりに置かれてあった。

「私は『ソンコ』って読まないのに。いや、こういうのはさ、もっと前に……。ま、どっちにしろ敗戦者か、私たち」

「というか、かませ犬だな、どっちかっていうと。どうする、慰労会でもするか」

それぞれ恋しく思う相手から報告があった。二人の恋は突撃する前に敗北した。

「慰労会もいいけど、てか、法流院先輩て、来ないのかな」

 わずかな静寂と、その後の経過・結果報告。

 深い沈黙と重い溜息。

 室内の音楽プレイヤーをオンにして、すでにセットされていた音楽を流した。静かなジャズだった。遠くの車のエンジン音は、かすかで遠いのに、それでもウザったく感じられた。

「ふっつぅーに失恋か、ハプニングもなく」

 鮨のわさびが飛んでくることも、サッカーボールを顔面ブロックしてからポロリをすることも、その他、北五十里や中屋敷が報われるような出来事は、何も起こらなかった。

「いや、ンな時に何か起こっても雰囲気ってか台無しだけどな」

「気持ちごまかすにはちょうどいいかもよ」

「ごまかしきれねえから、ここにいるんだろうけどもな」

「そうだけど」

 クリスマスとか初詣の際、法流院が文化祭レベルで茶々入れて、

「私が大吉限定にして差し上げます。恋愛のみですが」

 と言っていた。その時は、恋の限定解除を切に願う北五十里と中屋敷だったのだが、まったくご利益どころかご相伴にも預かってない現在。

「それこそ私たちって恋の神様の不興を買ったとしか思えない。そんな記憶というか、そんなぶしつけなことをしたことないはずなのに」

 しかし、北五十里に言わせれば、かませ犬になるわけで、二人が羽吉と駒坂の縁結びに一役買ったことは、それこそご利益のあった当事者二人が、まさに北五十里や中屋敷に面と向かって吐露している。北五十里と中屋敷が、噛み合ってなかった歯車の媒介となり、また潤滑油になったのだ。そこには、誤解や早とちりや何もしないであきらめることや、いろいろなことが合いまみえてはいた。いや、それらすべての要素が一つの帰結になったのだった。

 それを思って、また深く重いため息が出た。

「これってさ、どこにでもあるエピソードの一つなんだね」

「だろうな。けど、そんな他人事みたいな」

「だね。私たちにとっては人生のバーベル持ち上げられて金メダルに届かなかったってことだからね」

「結局、敗北なんだがな」

 客観的になろうとして、それが慰めになれば、それに越したことはない。けれど、そんなことを言って、中屋敷にできたのは、スカートのすそをありえない力で握ることだけだった。

「まあさ、今感じている痛みってさ、俺たちだけのものじゃないだろうな」

 中屋敷はそれを黙って聞いていた。

「先輩たちがさ、俺らがこうへこんでいるとも思わない人たちだったら、ここまでさ、想い至らなかったんじゃないかな」

「そりゃね」

 励ますようでもなかった。ただ、力ない言葉の中に、恋をした実感、好きになって良かったという実感が北五十里の言うことに同意した。

「分かるんだよねえ、それが。恋したから分かるんだ。そんなことどうしたって分かっちゃうんろうねえ」

「この痛みをさ、先輩たちが味わなくてよかったんじゃね? いや、そんなことはないだろうから、先輩たちがダメージにならなくて」

「それ、綺麗事でしょ」

 いつもの中屋敷なら、こんな時何倍返しの毒舌になろうが、すっかりまろやかになってしまっている。

「まあ、先輩たちがこのまま順風満帆とは限らないし」

 むしろ、北五十里の方が偽悪的である。

「そうであってほしいような、なんかあってほしいような」

 棘が一時的に萎れていても、やはり中屋敷は中屋敷である。それでも彼女のロマンチックな部分がこんなことを言わせた。

「恋には落ちるって、よく言ったもんだよ。そう、もう落ちちゃったもん。だから恋なんだよ。気付いたらさ、もう落ちちゃってたたから、クッションがあるわけじゃないし。どんだけの深さかもしれないし。そっから上がるとなるとさ、苦しくて痛くて、どこまで行けば脱出できるのか知れなくて途中でまた転げ落ちそうになる。でもさ、光はさ、底からは射さないンだよ。這い上がっていくその先から射してくるんだよ。だから、苦しくても痛くても、どれだけ這えばいいのか分からなくて不安でも光を目指しちゃうんだよね。底の居心地の良さを思い出しながら」

「なら、愛には落ちないんだろうな。愛は浸るもので」

「詩人にでもなったつもり?」

「いや。どっちかっつうと強がってみた。というか、皮肉だろうな。お前と同じで、俺も奈落の底であおむけになってる状態。蜘蛛の糸が降りてこないかなあと」

 北五十里も負けず劣らずにセンチメンタルである。

「あー、なんで私の好きな人はあんたじゃないだろ。あんたなら何も気兼ねなくいられるのに」

「なんだよ、蜘蛛の糸のつもりか? そういうのと違うから恋したんだろ」

「カッコつけんじゃないのよ」

「たしかに。俺も思う。先輩じゃなくてお前だったらって」

「思うんジャン。そういや、前言われたことあんなあ。あんたのこと好きなのかって、別のクラスの子で、同中だっただけど」

「なんて答えたんだよ」

「ん~なんだっけ。二酸化炭素ってこと得たかなあ」

 まったく意味が分からない。

「どうしても出てくるもんて意味」

「いや、まったく分からん」

「じゃあ、あんたにとって私は何よ」

「そりゃ、お前はなんつうか。そうだな戦友みたいだな」

 その言葉は慰めでもなく、ねぎらいでもなく、叱咤でもなく実感だった。だから、それを聞いて、中屋敷は泣いた。苦しいくらいに。釣り上げられた魚が地に置かれ、のた打ち回るような感じに。それでも、泣かないと先に進めないこともある。

 どちらともなく腕を広げていた。中屋敷は北五十里の胸の中で泣きじゃくった。北五十里は中屋敷の頭の横でただ目を閉じていた。幾筋かの涙を辿らせて。


 五分経っただろうか、七分経っただろうか、それとも十数分は経ったのだろうか。

「あー痛てえな。なんで心はどこにもないんだよ。掴めたら、マッサージするか麻酔打つのにさ」

 中屋敷のすすり泣きがやむと、おもむろに北五十里はつぶやいた。そして、二人並んで壁にもたれて腰を下ろした。

「あんた、今日するの?」

 おかげで(なのか?)、彼女は気持ちを持ち直せた。その一言目がこれである。

「そんな気分じゃない」

 素直に答える方も答える方だが、そこが北五十里なのだろう。あえて彼の優しさとは言わないでおこう。

「じゃあさ。け~んじ。セックスしようか」

 泣き終えたしわがれた声を明るく絞り出した。

「お前さ、それ俺から言ったらセクハラとか言い出すトピックだぞ。てか、もしかしてそれもなんかのネタか」

「うん、だいぶ昔の漫画。でも気分はそう言いたくなる気分。だって、大人はそういう風にしてさ、傷を癒したりしてるんでしょ。ならいいじゃん。他の男はちょっとだけど、あんたならあとくされなさそうだし。どうせ、駒坂先輩を想って右手動かしてたんでしょ」

「セクハラを超えてるぞ。お互い失恋てか、俺がまだ感傷的だからスルーするけどさ」

「したくないの? 私ってヤリたい対象にはならないわけ?」

「したいかしたくないかと言われれば、したいさ。そりゃ。感傷の誤魔化しとか、関心とか衝動とか。でも、それがお前ととかと聞かれると、パスだな」

「なんでよ」

「お前が大切だから」

「は? 自分を大事にって言いたいってこと?」

「全く逆だ。お前がヤケ酒で寝ゲロして二日酔いになるなら付き合う。でも、なんつうかな。セックスはさ、別もんなんだよね」

「脱童貞まで男子って、好きな人としたいってホントなのね」

「いや、そういうこととも違うな。とにかくお前とはそういう慰め方したくねえ」

「ハグはしたじゃん」

「ハグはいんだよ」

「ホント、童貞ってめんどう。てか、あんたってめんどう」

「だろうな。俺も思う。お前とヤッて慰め合えたらってさ」

「何それ、矛盾してんじゃん。ヘタレ」

「弁明はしない。けど、本心なんだから仕方ない」

「仕方ないか。ま、確かに初めてだから不慣れであれこれ試行錯誤してたら、ストレスだし萎えるか、私が。ま、そだね。私も強がった手前、あんたが断ってくれてよかったかも。しゃあない、なら、飲むか」

「何を飲むかは聞かないで付き合ってやる」

「飲んだ勢いで襲うなよ、結局なし崩し的にってなったらカッコ悪いぞ」

「分かってる、前後不覚になる前にとめておく」

 きっと中屋敷が先ほど言ったことは本意ではないだろう。恋敵に啖呵を切ったのだ、たがえる彼女ではない。言いたかったのだ。それくらいの気持ちだと。その気持ちを北五十里は受け止めたうえで切り返してくると。なにせ、中屋敷にとって彼は二酸化炭素なのだ。彼女の気持ちをくんでいておかしくはない。

 二人をそう言うならば、大人はごまかししかできないとも言える。未成年はそのむしり掻く感情と直面しなければならない。それを避ける方法も手段も現代はたくさんある。二人が真正面からそれを迎えたのは見上げたものである。

 北五十里、中屋敷の愚痴りあいの時もラブコメ的アクシデンタルは起こらなかった。二人はまったく頭が回っていなかったようだが。

 二人が部室を出て行った後、法流院は静かに入ってきた。机の裏底に張り付けておいたICレコーダーを取った。一度全部聞いた。それからその録音を消去した。ふうっと軽く息を一度吐いて帰路についた。部室はとてつもなく静かになった。


 二人が何を飲んで憂さを晴らしたかは、明らかにしないでおく。ただ二人して飲んでいる途中で何度か吐き、起床後激しい頭痛に苛まれたことだけは付記しておこう。

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