第37話 絵画修復家伊藤紀明

 九月、美術同好会は文化祭に向けて動き出した。

 海先輩は大学受験の勉強をしながら、同好会の活動を続けてくれている。「植物図鑑」と銘打った透明水彩画のシリーズを発表する予定だ。

「美大に行けるほどうまくないしなぁ。虹くんがうらやましいよ」

「絵を仕事にしたいんですか?」

「そんな夢を見たこともあったな。私には無理。今日はもう帰る。勉強しなきゃ」

 受験と部活の両立は大変そうだが、よく顔を出してくれている。

 美術室には僕と海先輩の他に一年生がひとりいた。今年同好会に入ってくれた津村和昭くんだ。動物をテーマにしてペン画を描いている。草原に佇む豹の親子。キリンとバオバブの大樹の遠景。水族館から逃げ出し、街にあふれるペンギンの群れ。

「よほど動物が好きなんだね」

「はい! 家にはボーダーコリーとロシアンブルーがいます。動物の絵は中学のときから描いてました」

「よく描けてると思うよ」

「会長の絵と比べたら全然だめです」

「うーん。まぁ、僕とは比べなくていいよ」

 僕は南極のペンギンを描いたことがある。その絵を見せたら、津村くんは驚嘆していた。まぁ、魔法だからね。うまいのは当然。

 僕は高二になってからデジタルイラストの制作を休止し、油絵を描いていた。文化祭の展示で映えるのはデジ絵より油絵だと思ったからだ。

 今、会員は三人。今度の文化祭で大いにアピールして会員を五人に増やし、美術同好会を美術部に昇格させるのが僕の願いだった。

 夏休み前に、月世界の風景を二点、木星表面を描いた絵を一点、油で描き終えていた。夏休み中に深海をテーマにした抽象画のようなものを二点描いた。合わせて五つの作品がすでにある。

 文化祭までに、もうひとつ作品を完成させたかった。描きたいのは人物画。青春群像を描くと決めていた。登場人物は僕自身と冬月筆子、中州りりか、黒山月夜、琴平海、津村和昭。僕に強烈な印象を残している人と今一緒にいる人。

 実在の人物を描く。下手なことはできない。筆子が命を削るようにして漫画を描いているように、僕も命がけで制作するつもりだった。

 十月、僕は青春群像画とどっぷり取り組んだ。

 Gペンを持って漫画を描こうとしている筆子がキャンバスのもっとも右側にいる。一番左にいるのはペンタブレットを持って筆子を眺めている僕だ。中央にりりかがいて、静かな瞳で僕を見ている。両腕で自分を抱き、少し寂しそうにしている。りりかの左、僕の右に海先輩がいて、露草を愛でている。りりかの右、筆子の左にはロシアンブルーを抱く津村くんがいる。それら登場人物の背後に大きく描かれた黒山月夜さんがいて、世界を包み込むように両手を広げて、五人を見守っている。

 一見、人物はまとまりなくバラバラに行動している。時空間はめちゃくちゃだ。でも僕の中ではすべてがつながっている。世界は多様で、僕たちは好き勝手に行動している。それでも知り合ったり、影響を与え合ったり、傷つけたり、傷つけられたり、愛し合ったりして、交錯して生きている。この絵はバラバラなんかじゃない。そう信じて描いた。

 十一月、文化祭が催された。美術同好会は三人の作品を美術室に展示した。植物と動物、宇宙、深海、そして青春群像の絵がある。お客さんは熱心に僕たちの絵を見てくれた。僕の油絵はけっこう好評だった。じっと見入ってくれる人がいたし、誉めてくれる人もいた。

 ひとりの大人が僕の絵を長い間見つめていた。宇宙と深海を描いた油絵を一点ずつゆっくりと検分するように見て、精魂込めて描いた青春群像画を「うーん」とうなりながら鑑賞していた。しゃれた帽子をかぶって、口ひげをはやしている男の人だった。

「この絵を描いた人はここにいるの?」とその人は言った。

「はい。僕です」

「きみか。絵画魔法使いの春日井虹くんかい?」

「はい。僕のことを知っているのですか?」

「きみはちょっとした有名人だよ。ごく狭い世界でだけどね。知ってた?」

 有名人と言われて、僕はびっくりした。

「いや、知りません。僕はアマチュアで、作品を発表したのは学校の文化祭だけですし、有名なはずはありません」

「きみに目をつけている画商がいるんだよ。私はそのつてから、きみのことを聞いた。絵画魔法使いの学生がいて、写実画はピカイチだと。それで興味が湧いて、見に来たんだ。なかなかおもしろいね。どうやら、描きたいのは写実だけじゃないらしい」

「あなたはどなたですか?」

 名刺をくれた。「絵画修復家 伊藤紀明」と書かれていた。

「名画の模写とかできるよな?」

「できますけど」

「そうだろうな。ちょっとやってみてくれないか?」

 伊藤さんは鞄から小さな静物画を取り出した。葡萄と花瓶の絵だ。葡萄は瑞々しく透明感があり、花瓶は青磁だった。

 僕はそれを模写した。一時間ほどで完成した。簡単だ。

「ふーむ、やるね」

「魔法ですから」

「いや、この再現度はすごいよ。それに仕事が速い」

「僕は今、自分のオリジナルを追及しているんです。模写にはあまり興味はないし、誉められても嬉しくありません」

「そうだろうね。つまらないことを頼んで悪かった」

 彼は模写を見て、そしてまた展示している僕の絵を見回した。

「なぁ春日井くん、私の仕事を手伝ってみる気はないか?」

 仕事?

 思いがけない話だった。でも少し興味が湧いた。僕は今では絵を仕事にすると決めている。イラストレーターになるのが夢だが、絶対にそれしかないと決めつけているわけではない。僕にできることなら、他の仕事をしてもいい。

「絵画修復家って、どんなお仕事なんですか?」

「傷んだ古い絵の修復だよ。ちょっと忙しくなってきてね。手が足りないんだ。しかし誰にでも頼めるって仕事じゃない。貴重な絵を取り扱うこともある。それなりの技術が必要だ」

「僕にできますか?」

「きみにならできるだろうね」

 僕は少し考えた。大人と仕事の話をしたのは初めてだ。伊藤さんは信頼できる人だろうか?

「それは仕事なんですよね。給料はもらえるんですか?」

「もちろん。会社としてやっているからね。社員になる気はある?」

「僕はまだ高校二年生です。高校は卒業したい。でも大学に進学するかどうかはわかりません。なんらかの絵の仕事があるなら、進学しない選択肢もありですね」

「卒業したら、私のところに来ないか?」

 伊藤さんにはひとかどの人物という雰囲気があった。この誘いを無下に断るのはもったいない気がした。

「会社を見学させてもらっていいですか?」

「もちろん。明日にでもどうだ?」

 せっかちな人だなと思ったが、それだけ本気で誘ってくれているのだろう。僕はうなずいた。

 次の日、伊藤さんは僕の家まで迎えにきてくれた。紺のフォルクスワーゲンビートルに乗っていた。助手席に乗せてもらい、会社へ向かった。

「私は危機察知魔法の持ち主なんだ」と彼は首都高速を時速百三十キロで飛ばしながら言った。

「警察に捕まる危険があるか、事故を起こす危険があるか、その他諸々察知することができる。私の運転は安全だよ」

 全然安全とは思えない猛スピードで車は走っている。曲がりくねる首都高が僕にはジェットコースターに思えた。

 ビートルは北上して埼玉県に入った。与野出口で高速道を降り、一般道を十分ほど走って伊藤さんの絵画修復会社に到着した。そこは社員六人の小さな会社だった。

 油絵を専門に直しているとのことだった。剥落しかけた絵具の接着、汚れの除去、キャンバスの木枠への張り直しなど、描画とは別の作業があり、それから丁寧に補彩していく。美術館から依頼されることもあれば、個人蔵の絵を直すこともあるという。

 集中して、注意深く古い絵画を修復していく仕事だ。傷んだ絵を描かれた直後のような状態にする。修復前の写真と修復後の絵を見せてもらった。作品が輝きを取り戻している。

 価値ある美術品を後世に遺す。大事な仕事みたいだと感じた。伊藤さんは息を殺して作業に集中していた。

 イラストレーターになれるまで、その仕事をしてもいいかな、と思った。

「今はまだ返事はできません。来年まで待ってもらえますか?」

「ああ、いいとも」

 伊藤さんはまた僕をビートルに乗せ、高速で家まで送ってくれた。

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