第17話 冬月筆子像
筆子は睡眠時間を削って漫画を描いているようだった。目に隈ができ、顔に疲労の色が見える。剣道のアクションシーンはかなりむずかしいようだ。
剣道の試合の写真を単に模写しても、迫力ある漫画の絵にはならない。彼女はかなりデフォルメした遠近法を使って迫力を出そうとしていた。敵の持つ竹刀の切っ先が巨大化して主人公に迫る。遠い間合いからいきなりヒロインの目の前に現れるようにライバルの瞬間移動を描く。クライマックスの試合のシーン、筆子は絵と格闘するように、さまざまなポーズを考え、表現していた。
十月に入った。原稿の締め切りまであと二週間。漫画が完成する目途はまだ立っていない。筆子はほとんど寝ていないようだった。
「寝ないと倒れるぞ」と僕は忠告した。
「大丈夫。授業中に寝てる……」
「全然大丈夫じゃないだろ、それ。家では一睡もしてないの?」
「してない……」
「手伝おうか?」
「春日井くんは自分のイラストがある。野村さんのフィギュアの塗装もしないといけない。迷惑はかけられないよ……」
「痛々しくて、見ていられないんだけど……」
「大丈夫。絶対仕上げる」
「会誌の表紙はできてるの?」
「まだ手を付けてない……」
「僕がやろうか?」
「引き受けた以上、ちゃんとやりたい」
「何を描くの?」
「剣道少女のキャラを使って描くことしか決めてない……」
「ほんとに大丈夫か?」
僕と話しながらも、彼女はペン入れの手を休めていない。目は原稿からそらしていない。時間がなくても描き込みをおろそかにすることはなく、クオリティを下げまいと懸命だ。
中学一年生の描く漫画だ。プロのように描けるわけもない。しかし筆子は今持てる力を振り絞って描いていた。そこには下手なりに迫力があり、ところどころに魅力あるコマがあった。主人公の必死な顔には、はっと目を惹かれるものがあった。
彼女はなんとか締め切りに間に合わせようと戦い続けていた。
その頃僕は筆子の肖像画を会誌に載せるかどうかで悩んでいた。僕の自信作は、南極や百名山より、「冬月筆子像」だった。でもそれを発表するのは少し気恥ずかしかった。
筆子も恥ずかしがり屋だ。発表を嫌がると思った。しかし意外にも「前に描いた筆子の肖像画、会誌に載せていい?」と相談すると、「春日井くんの作品だもん。好きにしていいよ」と彼女は答えた。うーむ、どうしよう?
漫画を描いている筆子を描写したイラスト。完全に写実的でもなく、完全に漫画的でもない両方の良いとこ取りをしたような絵だ。僕としては筆子の可愛さと漫画に対する情熱を表現できた作品だと思っている。
ノートパソコンのモニターを見つめながら、これを文化祭で発表していいのか悩んだ。筆子を知っている人が見たら、一発で彼女だとわかる絵だ。描き手のモデルに対する愛のようなものも、そこには込められている。悩ましいのはその点だった。
「いいイラストじゃないか。ぜひ発表したまえ」と会長は言った。
「うーん。まぁ、自分でもよく描けているとは思うんですが……」
「すごくきれいな絵ね。春日井くんって、筆子ちゃんが好きなの?」と後藤先輩に冷やかされた。
僕は困って顔を引きつらせた。筆子本人がいるところでそんなことを訊かないでほしい。
しかしそれこそが問題なのだ。この絵を見た多くの人が、画家がモデルを好きなんじゃないかと誤解しそうで。いや、まるっきりの誤解ではないのだが。
僕は筆子を好きか? うん、もちろん好きだ。
では僕は彼女に恋しているのかというと、それは不明だった。自分でも、この感情が恋愛なのかどうかよくわからない。今のところ、筆子は僕の親友のような存在だ。
「それ、ただの作品でしょ?」と野村さんが口をはさんだ。「冬月さんはその絵のモデル。それ以上でも以下でもない。ちがうの?」
彼女はふだんでも鋭い目付きをしているが、今はいつも以上に鋭かった。
「それともふたりは付き合っているの?」
「付き合ってない」と僕は答えた。事実だ。筆子は僕の彼女ではない。
部室でそんな会話が交わされている間、筆子は黙々と漫画を描き続けていた。熱意あふれる筆致で。彼女の姿を見て、ふいに僕は悩んでいるのがバカらしくなった。今の最高の作品を発表しないで、他の何を出せるというのか。
「発表します」と僕は言った。
決断すると気が楽になった。何をそんなに悩んでいたんだという感じだった。文化祭までにもう一枚新作の筆子のイラストを描き上げ、二枚の「冬月筆子像」を発表しようと決めた。
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