第14話 筆子をモデルに描く。

 ◇中一、夏◇


 四月、五月と僕は風景画を描き続けた。

 六月に入り、今度は人物画に挑戦しようと思い立った。

 僕はどちらかというと、人物画が苦手だった。描けないことはないけれど、どことなく生気のない絵になった。描けるのは写真のような人物画だけ。オリジナルのキャラクターを創造するようなことは特に苦手だった。その点では筆子に完全に負けている。

 絵にはオリジナリティが大切なのに、僕にはそれが欠けているのだ。

 人物画の苦手意識を克服しよう、と思った。

 描きたい人物はいるか。

 ひとりいた。身近な人だ。

 僕は筆子にモデルになってほしいとお願いした。

「ええーっ、わたしが春日井くんの絵のモデルに?」

 彼女は戸惑っていた。

「む、無理……。モデルなんてできない……」

「頼むよ。人物画を練習したいんだ」

「中州さんか野村さんに頼んだら……?」

 きみのことが描きたいんだとストレートに言うのは、愛の告白じみて僕には無理だった。

「筆子のことは、絵の仲間だと思っているんだ」と僕は言った。

「頼むよ。絵のことは筆子に頼みたい」

「う……。でも人前でやるのは恥ずかしい。わたしの家でなら、いいよ……」

 平日は漫研の活動がある。土曜日と日曜日、僕は筆子の家に行き、彼女をモデルにして人物画を描く約束をした。

 次の土曜日、僕は筆子が住むマンションを訪れた。彼女のお父さんとお母さんは忙しいらしく、この日も不在だった。

「モデルって、どうするの……? 何かポーズとかとるの?」

「漫画描いてていいよ。筆子が漫画を描いてるところを描くから」

「それなら楽でいいや」

 筆子は漫画を描き始めた。すごい集中力で、僕に見られていることなどまるで気にしていないみたいだ。

 筆子の横顔をじっと見つめた。正面から見ると彼女の目は前髪に隠れてしまうが、横からなら漫画に向かう彼女の真剣な目が見えた。僕はそれを画用紙に写し取ろうと努めた。きつく結ばれた口元を、Gペンを握る強い指先を、あちこち跳ねている黒髪をスケッチした。

 彼女の横顔はきれいだった。僕は額から鼻筋、唇、顎、首に至るその整ったラインを正確に再現した。

 筆子の集中力が途切れた。筆を置き、顔を真っ赤にして僕に訴えた。

「そ、そんなに見ないで!」

「モデルなんだから、見ないわけにはいかないよ」

「だめ。やっぱりモデルやめる……」

「絵の仲間なのに……」

「う……。がんばる」

 筆子をモデルにした絵に、魂を込めようと思った。彼女は生きている。死んだような絵にはしたくなかった。生き生きとした絵を描きたかった。彼女の可愛らしさを、漫画に対する熱意を、絵で表現したかった。

 漫画的な手法を導入してみた。目にきらめきを入れたり、汗を光らせたりした。顔の線は単純化し、描き込み過ぎないようにした。写実的な絵ばかり描いてきた僕には、革新的なことだった。その効果は悪くはなかった。漫画へのほとばしるような情熱を持つ生きた筆子が描けているように思えた。

 休みの日に筆子の家に一か月ほど通い、彼女を描き続けた。

 三週めの日曜日、ついに彼女のお母さんと出会った。

「初めまして、春日井虹です」と挨拶した。

「まぁまぁまぁまぁ、あなたが春日井くん!」と筆子のお母さん、冬月真子さんは言った。彼女はいきなり僕の手を取って握手した。その瞬間、僕の体から自分でも意識していなかった疲れや痛みが消えていった。それはものすごい体験だった。体が一気に軽くなった。

 これが真子さんの無痛魔法か。この魔法を待ちわびている人が全国に、いや世界中にいるのだ。

「筆子がいつもお世話になっています。あなたのおかげで娘がどれだけ元気になったことか」と真子さんは言った。

 僕のおかげで筆子が元気に? いや、僕がいようといまいと彼女は熱心に漫画を描いているだけだと思ったが、あえて口には出さなかった。

「いや、僕の方こそ筆子さんには大変お世話になっています」と当たり障りなく答えた。

「今は筆子をモデルにして絵を描いているんですってね」

「は、はい……」

 ちょっと恥ずかしかった。

「ふふふ。どんどん描いてやって頂戴」

 真子さんが僕と筆子を見て意味ありげに笑った。

「お母さん、変な目で見ないで……」と筆子が困ったように言った。

 四週目の土曜日には、お父さんの冬月冬至さんに会えた。

「やぁ、きみが春日井虹くんか」徹夜続きでくたくた、といった風情で冬至さんが言った。

「筆子から聞いているよ。これからもよろしく頼むよ」

「はい。こちらこそよろしくお願いします」

「うん。悪いけど、眠くて仕方がないんだ。これで失礼するよ」

 冬至さんとの会話はこれだけだった。本当に疲れているようで、今にも倒れそうにふらふらしていた。雑誌の編集者というのは、相当忙しいみたいだ。無痛魔法が必要なんじゃないかと思ったが、このときは真子さんはいなかった。

 ある日、りりかが瞬間移動で僕の部屋に来て、筆子を描いているスケッチに目を止めた。

「これ、冬月さんだね」

「うん」

「彼女をモデルにしてるんだ」

「ちょっと、人物画を練習しようと思ってね」

 りりかがスケッチブックを手に取り、めくっていった。何枚も、何十枚も筆子の絵がある。僕は少し気恥ずかしかったが、見られてしまったものは仕方がない。

「あたしはモデルにしないの?」と彼女は言った。

 僕はちょっと驚いて、りりかを見つめた。そんなことを言われるとは予想もしていなかった。彼女はまっすぐな視線で見つめ返してきた。

「あたしのことも描いてよ」

「う、うん。今度ね……」

 僕は戸惑いながら答えた。りりかはきれいな子だ。よいモデルになると思う。

 でも結局、僕はりりかを描かなかった。一か月間、筆子をスケッチし続け、それを元にパソコンで彼女の肖像画を描いた。気合いを入れて色を塗った。顔の線は漫画的に単純化したが、色は緻密に塗り込んでみた。肌の明暗、黒い瞳孔と青みがかった虹彩、その瞳に宿る力。あちこち跳ねまくっている複雑な髪のラインはそのまま再現した。

 横から見た筆子が漫画を描いている姿。

 その絵は今までの僕の絵とは少しちがっているように思えた。少しは魂が込められたかもしれない。

 こんなふうに描いていけば、いつか本物の絵が描けるようになるのだろうか。

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