第7話 筆子は漫画を描いている。
◇小五、春◇
四年生のとき、筆子とはクラスが別々になって、彼女とのつきあいはすっかり消えてしまった。同じ学校だからたまに見かけることはあったけど、こちらから話しかけることはなく、向こうから話しかけられることもなかった。
僕はまた絵を描かなくなった。
五年生になって、筆子とまた同じクラスになった。相変わらず彼女の髪は長く、あちこち毛が跳ねていて、目は前髪で隠れていた。でも彼女の目がきれいなことを、僕は知っている。
絵に夢中になっているのも、前と変わりなかった。休み時間に絵を描いているのを見て、僕は妙に安心した。筆子は孤独にノートに向かっていた。
三年生のときのように席が隣ではなかったけれど、久しぶりに話してみようと思って、僕は彼女のそばへ行った。
「今は何を描いているの?」
「あ、春日井くん……。漫画描いてるんだけど」
「見せてもらってもいい?」
「う、うん……」
彼女はおずおずとノートを差し出した。
僕はパラパラとページをめくった。
ノートには、鉛筆で漫画が描いてあった。定規でコマ割りがされていて、その中にキャラクターが描かれている。絵は相変わらず下手で、特に人物の身体が描けていなかったが、顔だけは上手になっていた。目が妙に力を入れて描き込まれていて、惹きつけられる。かわいい顔だけは描けるようになったみたいだ。背景はあまり描いていなかった。場面転換のときなどに、申し訳程度に描かれているだけ。吹き出しがあり、キャラのセリフが書かれている。ストーリー漫画のようだ。
ノートの一ページ目に、「完全試合!」と書かれていた。それが漫画のタイトルなのだろう。
僕はじっくりと読み始めた。筆子は真剣な目で僕を見つめていた。
高校野球の漫画だった。野球部は男の集団だ。その中にたったひとり女の子のピッチャーがいて、がんばってエースを目指すというストーリーだった。
主人公の少女は野球が大好きで、そこらの男の子よりずっとピッチングの才能があるという設定だった。それを周りの男たちから嫉妬され、ときにいじめられたりする。体力がないという弱点もあった。ヒロインは弱点を克服するため並大抵ではない努力をし、投げ続けるというスポーツ根性ものだった。
ありきたりなストーリーだが、その漫画はなんというか、悪くはなかった。絵は下手だけどおもしろかった。キャラの顔だけはわりと描けていて、表情が生き生きしていた。筆子は漫画が描けるんだ、と僕は驚いた。
ヒロインは孤独で、でもずっと好きなものに熱中していて、筆子の分身のようだった。
「おもしろいよ」と僕はシンプルに感想を伝えた。
「ほ、本当?」
筆子の声は嬉しそうだった。
「でも絵は下手だね」
「うう……。春日井くんにはかなわないよ……」
「野球漫画なんだから、もっと身体の動きが描けるようになるといいかも」
「それはわかってるんだけど……。むずかしい……」
「手も練習するといいんじゃないかな。直球と変化球とで、ボールの握り方が変わるんだよ」
「それもわかってるけど、手はむずかしい……。練習する……」
「でも続きが読みたくなる漫画だよ。また見せて」
「うん!」
筆子が笑った。前髪の向こうから、大きく見開いたくっきりした目が僕を見つめていた。
彼女はかわいい。長すぎる前髪を切って、丁寧に櫛を入れ、ちょっとおしゃれをすればみんなそれに気づくだろう。でも今筆子は漫画描きにしか興味がなくて、見た目なんてまったく気にしていないようだ。僕だけが彼女のかわいさに気づいている。
相変わらず友だちはいないみたいだ。露骨にいじめられてこそいないが、完全に無視されている。クラスで彼女と話すのは僕だけだった。
僕は彼女の友だちなのだろうか。友だちと言えるほど親しいのかどうか、よくわからなかった。絵や漫画の話以外したことがない。筆子はどう思っているのだろう。
「冬月さんと同じクラスになったんだね」
学校帰りにりりかが言った。家が近いので、たまに一緒に登下校をする。瞬間移動で登下校すれば楽なのになと思うが、それはしていなかった。「体は使わないとだめになるんだよ。あたしは運動好きだし」と言っていたことがある。
彼女とはクラスは別だった。
「うん。一年ぶりにね」と僕は返事をした。
「どんなようす?」
「三年のときとあまり変わらないよ。誰ともつきあわずに絵を描いてる」
「虹とは話すんでしょ?」
「少しね」
りりかは下を向いて石を蹴った。
「冬月さんは絵がどんどんうまくなってる。見ていればわかるよ。三年のときと比べてずっと進歩してる。でも僕は何も変わってない。最初からうまくて、それだけだ」
「言ってみていいかな?」
「何を?」
「虹は絵がうまいのかな?」
「え?」
「怒らないで聞いてくれる?」
「ああ、怒らないよ」
「前は虹の絵はすごいって思ってた。でも今は、どうなのかなって思うことがあって」
「何が言いたいの?」
怒らないと言ったけれど、僕は少しイラッとした。
「虹は完璧なデッサンをする。色も本物そっくりに塗る。でもそれだと、写真と一緒だよね。絵って、そういうものなのかな?」
痛いところを突かれた、と思った。それは僕も感じていることだった。
僕は名画の模写は完璧にできる。でも名画をゼロから描きあげることはできない。それで絵がうまいと言えるのか。
「りりかが言ってること、わかるよ。でも僕の魔法はそういうものなんだ」
「だから進歩しないんだよ。そういうものだなんて決めつけないで、いろいろやってみれば?」
「今日のりりか、きついね」
「ごめん」
りりかは謝り、黙り込んだ。
「先に帰る」と彼女は言い、姿を消した。珍しく下校で瞬間移動魔法を使った。
季節は春。四月上旬。桜が散り始めていた。
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