第4話 僕は筆子を無視できない。

 十月初旬。長く続いた残暑が終わり、秋らしい涼しさがやってきた。昼休み、給食を食べ終わると、活発な子たちはボール遊びに興じたりしていた。外で遊ぶにはいい季節だ。

 しかし筆子はほとんど自席から動かなかった。

 休み時間、彼女はいつもひとりで落書きをしていた。

 自分の世界に閉じこもり、友だちも作ろうとせず、ひたすら絵を描いている。クラスメイトもそんな彼女に慣れっこになって、放っておいている。

 魔法を使えず、コミュニケーション能力も低い。そんな筆子をみんなは無視した。

 僕だけが、彼女を無視できなかった。気になって、ときどき彼女を見ていた。

 ずっと絵を描き続けている彼女は、ほんの少しずつだけど、うまくなっていた。僕にはそれがわかった。反復練習をたゆまずやっていれば技術は向上する。筆子は数日前僕が描いてあげた絵を何度も繰り返し模写して、リボンやフリルを描くのが確実に上達していた。

「家でも描いているの?」と僕は筆子に話しかけた。

「う、うん……」

「どのくらい?」

「アニメ見たり、漫画読んだりする以外の時間はずっと……」

「ごはん食べてるときも?」

「うん。うちはお父さんもお母さんも帰ってくるの遅いから、コンビニのおにぎりとかファストフード店のハンバーガーとか食べてるの。食べながら描いてる。疲れたらお風呂入って寝る……」

 すごいや、と思った。本当に絵を描くのが好きなんだな。

 そんな食生活でいいのかとも思ったが、それは口にしなかった。筆子の家庭の事情に口出しするほど親しくはない。

「あ、あの……」

「なに?」

「春日井くんは描かないの?」

 筆子の問いかけに、胸がつまった。僕はもう一年ぐらいまともに絵を描いていない。絵画魔法を捨てて生きていく決心をしたとか、そんな強い気持ちでやめたのではなく、なんとなくやる気が出なくて描いていないだけだ。描いても面白くないから……。

「最近はほとんど描いてないよ」

「なんで? 上手なのに……」

「絵なんて好きじゃないから」と正直に答えた。

「ええーっ? なんでぇ?」

 筆子には僕が理解不能のようだった。うまく描けるのに描かないなんてどうして、とか思っているのだろう。

「なんででもさ」と僕は投げやりに言った。多くを語る気にはなれなかった。

 小三のとき、僕はなぜ自分が絵を嫌いなのか、他人にうまく説明することができなかった。いとも簡単に上手に描けるからつまらないんだ、ということなのだが、ことばにすると薄っぺらくて、僕が感じている胸の内のモヤモヤは伝わらない。

 筆子のように絵が大好きで楽しく描けたらいいだろうなとは思う。でも夢中で絵に取り組むなんてできなかった。僕の場合は魔法で手が勝手に動いて絵ができていくだけで、そこには創造性なんてなかった。楽しいとは思えなかった。全然おもしろくなかった。

「も、もったいない。春日井くんぐらい描けたらいいなって、わたし、いつも思ってるのに……」と筆子は言った。

 そうだろうな。彼女はそう思うだろう。絵が好きで上手になりたいと思っている人には、僕の悩みは贅沢だと思われるのがオチだ。

 もういい。彼女のことなんて放っておけばいいのだ。他のみんなと同じように……。

 でも絵を完全には捨てられない僕には、それができなかった。絵を描く以外、僕には取柄がない。彼女がうらやましくて、気になって気になって仕方がなかった。

 筆子と一緒に絵を描いたらどんな気分になるだろう。

「今日の放課後、一緒にスケッチでもする?」と言ってみた。十月初めの昼休みのことだった。

「す、する! 春日井くんと一緒に描きたい!」

 彼女はびっくりするぐらい食いついてきた。

「じゃあ屋上で描こうか」

「うん」

 僕らの学校は東京の下町、深川にある。東京ゼロメートル地帯と言われる地域だ。小河川が何本も流れ、橋は盛り上がって弧を描いている。水面と地面がすれすれ。

 四階建て鉄筋コンクリートの校舎の屋上に登ると、ぎっしりと住宅や商店が立ち並ぶ下町の風景が見渡せた。東には深川不動尊の立派な屋根と富岡八幡宮の木立が見える。西には隅田川が流れ、その向こうに超高層ビルが乱立する都心がある。北には東京スカイツリーがそびえ立っている。

「この街をスケッチしよう」と僕は言った。「描ける?」

 落書きみたいな人物画しか描いていない筆子には、街を描くのはむずかしいかもしれない。

「わ、わからないけど、描いてみる……」

 彼女は落書き用のノートを広げた。今は国語のノートを持っている。表紙に「国語 冬月筆子」と黒のマジックペンで書かれている。ノートの前半には確かに国語の授業で板書されたことが書き写されているが、後半はただの落書き帳だ。

 僕は筆子の横顔を見た。変わった子だ。転校一か月めにしてクラスで完全に孤立し、誰からも相手にされなくなってしまった。でも僕はこの女の子を注目せずにはいられなかった。

 僕はスケッチブックを開いた。ほとんど使っていないけれど、いちおう絵画魔法使いなので、ランドセルに入れて持ち歩いている。

 隅田川と相生橋、対岸の高層ビル群を描くことにした。白い画用紙に鉛筆でさらさらと淀みなく描き込んでいった。

 僕は一発で完璧なデッサンで描くことができる。迷い線なんてない。描くスピードも速い。橋や建物をどんどん緻密に描写していく。空に浮かぶ雲も描く。今日はきれいなうろこ雲だ。

 建築物に陰影を付ける。川の表面にも濃淡をつけて、流れを表現する。

 一時間ほどで完成した。もっと細かく描けと言われれば描けないことはないけれど、これ以上描くとしつこくて重い絵になる。描こうとしたのは精密画ではなくスケッチ。これぐらいが筆の置きどきだろう。

 筆子は悪戦苦闘していた。消しゴムをいっぱい使っていた。描いては消し、描いては消していた。街並みを見下ろして「うう……」とうなることもあった。僕が絵をのぞき見ようとしたら、彼女は隠した。

「み、見ないで。恥ずかしいから……」

「教室では恥ずかしげもなく描いてるじゃないか」

「風景って、全然うまくないから……」

「人物だってあんまりうまくないよ」

「ううう……」

「見せてくれないと、僕の絵も見せないよ」

「えーっ、そんなぁ……」

「見たかったら、見せてよ」

「う……はい……」

 筆子はノートを僕に渡した。デッサン力ゼロ、遠近感欠如の絵がそこにあった。四角い箱みたいな建物がぐちゃぐちゃと並び、遠くのビルと近くのマンションが似たようなサイズになっていた。川の表面は不自然な三角波で飾られ、雲はたばこの煙みたいだった。普通の小三の児童が描く風景画なんて、こんなものかもしれない。

 消しゴムを使いすぎて紙が汚れていた。がんばったんだ、ということは伝わってくる。

 筆子は口をへの字に曲げて不満そうに自分の絵を見下ろしていた。

 彼女に僕のスケッチを見せた。彼女は目を見開き、食い入るように見た。

「す、すごい……」とつぶやいた。「ど、どうやってこんなの描くの?」

「どうやってって言われてもなぁ。魔法だから」

「ずるい、春日井くん……」

 筆子は唇を尖らせていた。

「人物ばかり描いてないで、たまには風景も描けば? 描けば少しずつうまくなるよ。たぶんね」

「描く!」と筆子は言った。

 その日、彼女はあと一時間ばかり絵と格闘し続け、結局まともに仕上がらないまま終わった。僕たちはノートとスケッチブックを仕舞い、下校した。

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