第5話 大暴落! そして最重要項目『資金管理』
とても気持ちの良い目覚めだった。
昨日株を始めたことによって、一日で資産が1万円も増えてしまったからだ。
嬉しさのあまり晩酌も進んでしまったが、時計を見ると、もう朝9時をとっくに過ぎている。
「さーて、今日の株価はどうなってるかな。単純に考えると3650円になっててもおかしくない……」
僕はウキウキしながら証券会社のアプリを開いた。
その瞬間、最初に覚えた感情は『不可解』。
現実がまるで違うものに変容してしまったような感覚。
だが、何度目を凝らして見てみても、それが見間違いでないことは確かだった。
昨日株価3450円で買ったあと、100円上がって3550円になっていたはずの○○電機の株価欄には。
3050(-500)
血の気が引くような緑色の文字で、そう書かれていた。
「……え?」
思わず、声が出てしまった。
恐る恐る、評価損益を確認してみる。
「マイナス……4万!?」
景色が一瞬闇に溶けたような気がした。
僕は、かくり、と部屋の床に膝を突いて四つん這いになる。
「胃が……胃が痛い」
臓腑が、何か切実なものにきゅう、と締め付けられる。
何もしてないのに、たった一晩で4万円なくした。
いや、違う。昨日の総資産から考えたら、5万円なくなったんだ。
嘘でしょ。5万を?
僕は、あの5万円で買えただろうモノを色々想像する。
焼き肉なんて十回ぐらいは食べられただろうし、電子レンジとかも買い換えたかったし、プレステ5なら本体とか買えたんじゃないだろうか。
時給800円のバイトで言うと約62時間分……三日ぐらい働かないと取り戻せない額。
僕は精神的ショックで立ち上がれない。胃があまりにもきつく締め付けられて――
「……あ、ダメだ」
僕は慌ててトイレに駆け込む。
「うげええええええええええええええええええ!!」
戻した。
何を戻したかは、汚いモノを描写するのが憚られるので、あえてここでは『夢のカケラ』と描写させていただく。
夢のカケラはきらきらと輝きながら、便器の奥に吸い込まれていった。
「嘘だろ……夢だ……夢に違いない……」
僕が憔悴しきって便座の上に突っ伏してぐったりしていたその時。
ピンポーン、とアパートのインターホンが鳴った。
「……こんなときに誰……」
僕が重い身体を起こして扉をガチャリと開けると。
「てってってーーん」
ぶかぶかのサングラスをかけた吟子師匠が、棒付きキャンディを咥えながら待ち構えていた。
「また大門団長……」
「違うわ! あほ!」
「……え? だってそのサングラス……」
「これは『仁義なき戦い 広島死闘篇』の
すると吟子師匠は、制服のポケットから違うサングラスを取り出してかける。
「いい! こっちが大門団長!」
再びサングラスを入れ替える。
「こっちが大友勝利! 全然違うでしょ!」
「わかりませんよー……」
どっちも素人には見分けのつかないぶかぶかのサングラスだった。
「吟子師匠……なんで、そういう古い映画ばっか観てるんですか」
「わしは命が粗末に扱われる映画が大好きなんじゃ! スカッとするんじゃ!」
ひでえこと言う師匠だなこの人……いんちきの広島弁まで使ってるし。
「それより、○○電機の株価、見たでしょ? どう、どんな気分?」
「……その」
僕は、自分の身体が汚れていないか改めて見下ろしてから答える。
「最悪な気分です。戻しました。少し」
「……マジか」
吟子師匠は、僕の発言に少し引いているようだった。
「そ、想像以上にメンタルの器が小さかったわね……。こ、こほん。それじゃあ今日のレクチャー……」
吟子師匠は、咳払いすると指を一本立てた。
「今日はね、全面安って言って日本のほとんどの株が下がってたんだけど、なんでかって言うとね。アメリカ大統領が失言をしたことによってダウが大幅に下落したのよ」
「ダウ……って昨日テレビのニュースでも言ってましたけどなんです?」
「『ダウ平均株価』。アメリカの主要な株の株価を平均化した指数で、日本の株価の指標として使われる『日経平均株価』のアメリカ版ね。ま、要するにアメリカの株価全体がずーんって下落したってわけ」
「それが、なんで日本の株価に影響を……」
「だって、今どき、経済って世界中繋がってるものだから」
「そっか……じゃあ、アメリカの経済ニュースも僕はチェックしておかないといけなかったんですね……」
「ま、チェックしたところで覚悟を決めることぐらいしかできなかっただろうけどね。時差があるからアメリカの市場が開く時間と日本の市場が開く時間ってかぶらないのよ」
「なるほど……」
「まあ、プロなら株価が下落してる時にも信用取引っていう制度を使って、『売り』から入ることで利益を出せるんだけど、わたしは信用取引に手を出すのは最低でも三年ぐらい経験を積んでからじゃないとやめとけ、とはっきり言っとくわ。特に凡人にはね」
そして、吟子師匠は巻物のような紙を取り出して、僕の前でするすると開く。そこにはこう書かれていた。
『買いは家まで、売りは命まで』
ふふん、と自慢げだ。
「……それ自分で用意してきたんですか?」
「うるさい! けったいなものを見る目で見るな! わたしが恥ずかしくなるでしょ!」
吟子師匠は顔を赤くして恥じらった。
「これは相場の格言よ。『買い』から入っていれば、最悪でも、資産がゼロになるだけで済む。だけど、『売り』から入ると、損失は青天井に膨らむから覚悟しなさいっていう格言ね。なので当分はあんたに信用取引のことを教える気はないから、勝手に手を出さないように。――死ぬわよ」
「肝に銘じておきます……」
僕は、ぶるりと震え上がった。
「それじゃ、現物取引しかしてない人間が今日みたいな下落相場でどう立ち回ればいいかだけど……」
「ど、どうすれば……」
僕はゴクリ、と息を呑む。
「端的に言ってしまえば、相場全体が大きく下落した時に、現物派が儲けを出すことはできないわ。お手上げ」
「できないんですか!」
僕は思わず音速でツッコミを入れた。
「でもね。ダメージを『なくす』ことはできないけど、ダメージを『減らす』対策を取っておくことはできる。そこで、初日にあなたにしたアドバイスが生きてくるわけよ」
「吟子師匠から初日にもらったアドバイス……最初は買う株は、総資産の10分の1ぐらいにしておけ……ってやつですか?」
「そう! アメージングなわたしの教え!」
吟子師匠は、大げさに天を仰いで自画自賛した。
「それが――株式投資においてわたしが一番重要だと考える、『資金管理』の精神よ。実はね、最初に30万だけ使うように指示したのは、あなたに『資金管理』の感覚を肌で理解して貰いたかったからなの」
「資金管理の精神、ってどういうことですか」
「大ざっぱに言うと、今回はあなたが株を買うのに使った資金30万円から約13%減って、4万円を失ったでしょ」
「……はい」
「もし、最初から300万全額突っ込んでいたとしたら……どのくらいの資金を失ってたと思う?」
僕は、頭の中で必死に暗算する。
「ええと、300万円は30万円の10倍だから………………40万損!?」
「そう。40万円の損失になると取り戻すのも一筋縄じゃいかないでしょ。今の例のように、資金のほとんどを株に変えておくことを、『フルポジ』(フルポジション)と言うわ。株価の値動きで食らうダメージは、持っているポジションの多寡によって変わってくる。今回はポジションをフルポジの10分の1にしておいたから、下落時のダメージもフルポジの10分の1で済んだってこと」
「なるほど……フルポジは危険度が高い、ってことですね」
「そう。そして、株が『ギャンブル」ではない理由がここにある。株式投資の本質、それは――自分が持っているポジションを調整して、『リスク』と『リターン』のバランスを自分の手で取っていく作業なのよ! なのよー……なのよー……」
「自分でエコーかけないでください」
「とにかく現物取引のコツは、株価が上がり調子の時はポジションを増やす。株価が下がり始めたらポジションを減らす。これだけ守ればいいの。ただ、それが難しいのだけどね。野球で言うと、ボール球を見逃して甘い球だけ打てばいいってみんながわかってるのに実行できないのと一緒。いかにしてそれを実行していくかが、一流になれるかどうかの差ね」
「よくわかりました……でも、フルポジなら40万円いきなり損してたのか……」
そう思うと、再び僕の中でキュウキュウと胃が締め付けられて――
「うっぷ、す、すみません吟子師匠! う、うえっぷ……」
僕は、慌ててトイレに駆け込むと――
「おげえええええええ!」
再び夢のカケラを戻した。
強く吐くと涙がぽろぽろと零れていく。
僕は、あまりの惨めさに消えたくなっていた。
――その時だった。
「……凡太、大丈夫?」
「え?」
気が付くと、吟子師匠が僕の背中をさすってくれていた。
「吟子師匠、どうして……」
「……あのね。凡太。わたしは……あなたのメンタルの許容量を測ろうとしたの。株式投資をするにあたって、自分のメンタルの許容値を知っておくのは、大事なことだから。でも……ここまでつらい思いをするとも思ってなかったの」
すると吟子師匠は沈んだ声で、ぼそりと言った。
「……ごめんね」
吟子師匠が初めて、僕に向かって謝罪の言葉を告げたと思う。
なんだか、吟子師匠の心が泣いているのが見えたような気がした。
「株ってね。明らかに人によって向き不向きがはっきりしているものでもあるの。もし凡太がそんなにつらいんだったら、明らかに向いてないってことだから、株の講義はここまでにしてあとは――」
「違います!!!!!」
だから――僕は、絶叫していた。
そんな大きな声を出したことに自分でもびっくりする。
「……凡太?」
「吟子師匠は……吟子師匠は、僕の知らない世界を見せてくれました。世界は広いんだって教えてくれました。それなのに期待に応えられないのは、全部、僕が不甲斐ないからで……! その……僕は確かにメンタルは弱いかもしれないですけど……これ、いつかは慣れるもんなんですよね?」
「……ええ。そのうち、4万程度の損失じゃびくともしなくなるわ」
「だったら……僕、やります。吟子師匠の期待に応えられるよう……少しでも一流のトレーダーを目指します!」
「……ありがとうね、凡太」
吟子師匠は、にっこりと微笑んだ。
「……それじゃあ、この先のこと、一つだけ言っておくね。いつかね、凡太がうんと株の技術を身に付けたら……あなたには、倒してもらいたいトレーダーがいるの」
「倒してもらいたいトレーダー?」
「……奥田理人」
吟子師匠は、どこか聞き覚えのある名前を告げた。
「……誰ですか? それ」
「ひとことで言うと……株の超天才。それから……あなたの兄弟子」
「え!?」
つまり、その奥田というやつも吟子師匠の弟子だということ。
理由はわからないが、どうやら、僕はいずれ自分の兄弟子と戦わされることになるらしい。
だけど――僕は思ったのだ。さっきみたいな、吟子師匠の悲しそうな声は、聞きたくない。
「まあ、勝てるとはわたしも思ってないけど、一矢報いるぐらい……」
「……わかりました」
「凡太?」
僕は、すっくと立ち上がる。
「やってみせます。僕、吟子師匠に株式投資のなんたるかをもっと教わって、いつか……僕みたいな超凡人でも株の超天才に勝てるってことを、見せてやります!」
僕がそう言うと、吟子師匠はどこか嬉しそうな顔で微笑んだ。
「そうね。ありがとう。それじゃあ、まあ」
吟子師匠は僕の足元に目を落とす。
「着替えてほしいかな。凡太、クサいから」
「え? あーー!」
二回目の夢のカケラが僕のズボンに少し跳ねていたのだった。
<今日のまとめ>
株式投資で資産を増やそうとするのにあたって、最重要項目が『資金管理』だと思っています。端的に言うと、株に必要なのは「押し引き」。
株を資金めいっぱい買うことを『フルポジ』と言い、逆に言えば現金分であるCP(キャッシュポジション)の増減で、リスクを調整することができます。
株が下落している時に、いかにフルポジを回避できるか。
そして、張るべき時にちゃんと張れるか。
たったそれだけのことができたら苦労しないんですけどね。
銀髪女子高生にゼロから株式投資について教わることになった。 砂義出雲 @sunagi
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