猫と鼠と

兵藤晴佳

第1話


 朝遅く起きてからずっと、僕はベッドの中にいました。

 カーテンの間からは、窓からの光が漏れてはいます。

 部屋の中はまだ薄暗いのですが、多分、もうお昼ぐらいにはなっていたでしょう。

 いい加減起きようと思って、僕は小さな身体を、大人の柔らかくて温かい胸の下から引き抜きました。

 やっぱり、青い髪のリュカリエールは眠ったままです。

 それでも、床の上に散らばった服をこっそり着ている間に、ちょっと声を立てました。

「う~ん……パルチヴァール?」

 出ていこうとしたのが見つかったのかと思いましたが、どうやら寝言だったみたいです。

 僕は静かに部屋のドアを開けると、静かに外へ出ました。

 後ろで、勝手にカギがかかる音がします。これで、リュカリエールが迎えに来ない限り、帰ることはできなくなりました。

 それで、いいのです。いつでも逃げ込めるところがあると、遠くまでは行けません。

 僕は、この広い街の端っこへ行ってみたかったのです。

 いつも遠くからは、誰かが走る足音が聞こえてきます。どんな人が走っているのか、僕はずっと気になって仕方がありませんでした。

 だから、出てはいけないとリュカリエールに言われている部屋から、いつもこっそり出ていくのです。

 そして、今日こそは追いつくつもりでした。

 街の中には、誰もいません。広い道路の端で歩道の石畳の上を走っている、僕だけです。他には、行ったり来たりする人も、すれ違う車もありませんでした。

 でも、それだけなら、いつものことです。別に、びっくりするようなことでもありません。

 誰もいない街の中に、僕がただ、黙って立ったままでいるのは、いつもと違うことがあるからなのです。

 

 ……おうち時間を過ごしましょう。


 いつもそう歌っていたのは、ふうわりと明るい女の人でした。

 プシケノースという優しい人で、昼間は遠いところで眠りながら、何か恐ろしいものを止めようとしています。

 夜はいつも、お仕事をリュカリエールと替わって、僕と一緒にベッドに入っているのです。

 その間は、街の人たちも眠っています。そして昼間はプシケノースが歌うとおりに、家に閉じこもっているのでした。

 その声が、今日は聞こえませんでした。

 いつもなら、窓のない家の、丸い筒を半分に切って伏せたみたいな屋根の上には、眩しいお日様の輝く青い空があるはずです。

 それなのに、今日の空は変に暗いのでした。

 おまけに、怒ったような声が後ろから呼び止めてくるのも、いつもより早いのです。

「パルチヴァール?」

 振り向くと、身体にぴったりついた服を着たリュカリエールが、青く長い髪をゆらめかせて立っています。

 組んだ腕が持ち上げる胸の上では、にやにや笑う顔が僕を見下ろしています。

 でも、逃げようとは思いませんでした。

 いつもと違って暗い空から、目が離せなかったのです。

 灰色をした重い雲が、頭の上からのしかかってくるようでした。

「見えない……空も、お日様も」

 息が苦しくて、そこから先は何も言えなくなりました。

 リュカリエールはというと、どこから取り出したのか、薄い板のような電話で誰かとイライラした声で話しています。

「鼠が……壊した? どうやって……焼け死んだ?」

 相手は、プシケノースのようでした。

 話ができるということは、起きているということです。

 そして、眠っていないということは、何かたいへんなことになっているということでした。

 リュカリエールは、急に怖い顔で言いました。

「助けに行く」


 軽く跳んだだけで、リュカリエールは近くの家の丸い屋根の上に、ひらりと舞い降ります。

 振り向いたところで、僕のほうへ振り向いて言いました。

「猫になって止めてくるわ」

 答えることも出来ず、ただ、黙って見上げるしかありませんでした。

 しかも、猫というのが何のことだか、さっぱり分からなかったのです

 リュカリエールは、こう言い残して去っていきました。

「……何があっても、人に返事をしちゃダメよ」

 できるわけがありません。街の中には誰もいないのですから。

 それでも辺りをぐるっと見渡してみます。

 いました。

 いつの間にか、後ろに3人も。

 絶対に敵わないと思いながらも、僕はその前に立ちはだかりました。

 片眼鏡を、顔の右側につけた人と左側につけた人たち。

 その後ろには、黒いマントに身を包んだお爺さんがひとり。

 僕は、その前に立ちはだかります。

 リュカリエールの後を追わせるわけにはいきません。

 でも、お爺さんは別に、怯えたり恐れたるする様子もなく答えました。

「この街に、猫はいらない」

 確かに、この街で猫を見たことはありません。

 若い男の人たちはというと、ちょっと慌てていました。

 小さな僕に対しても、荒い声で言いました。

「どけ。あの猫は我々が追い払う」

 いったい、猫って何のことなのでしょうか。

 そんなの、どこにいるのでしょうか。

 リュカリエールを追っていたのではないのでしょうか。

 原子炉を止めようとしているのを……。

 でも、リュカリエールが猫だなんて。

「どうして?」

 そう思ったとき、目の前で光の幕が弾けました。


 少年の身体になった僕は気付いた。

 猫になるとは、どういうことなのか。

 静かに、そしてしなやかに。

 そして、ひそやかに、前へ進む。

 それは、危険を冒して原子炉の前へと入り込んでいくことだ。

 どうやら原子炉は、回路に鼠が入り込んで焼け死ぬせいで、電気回路に異常をきたしたらしい。

 リュカリエールは、その鼠を追い出そうというのだ。

 目を閉じれば、暗闇の中から声が聞こえる。

「その力を使うな……お前の力を」

 何の声だか、僕はもう知っている。

 原子炉の声だ。

 そのありかは、いつも街から遠くに見えている大きな建物の中だ。

 僕はまだ、行ったことがない。プシケノースとリュカリエールしか、たどり着くことができないのだ。

 でも、目を閉じれば、僕はその声と言葉を交わすことができるのだった。

「僕が止めてやってるんじゃないか、お前の暴走を」

 この原子炉の暴走で放射性物質が漏れ、この街の人々は外に出ることができなくなった。

 例外は、ただひとり。

 たびたび起こる原子炉の暴走を止めてきた、僕だけだ。

「私を止めるお前のひと言に、もう耐えられそうにない……身体がもう、ボロボロなのだ」

 今までの闘いで、原子炉には相当の負担がかかっていたらしい。

 でも、これは鼠の駆除だ。暴走を止める闘いじゃない。

 いつもは原子炉を叱りつけてきたが、今度ばかりは穏やかに語りかける。

「駆除しないと、もっとボロボロになる」

 そのときだった。

 鼠たちの微かな声が聞こえたのは。

「やめて……僕たち、居場所がないんだ」

彼等ら短い言葉は、それっきりだった。

 しばしの沈黙の後、代わりに闇の中から響いてきた声がある。

 それは、あの原子炉だった。

「ここにやってきた鼠たちは、家に閉じこもった、行きどころのない人間たちの心だ」

 それは、放射性物質のせいだ。これを暴走でまき散らした原子炉に言われたくない。

 だが、その気持ちを口にするわけにはいかなかった。

 原子炉に頼り切っていたのも、僕たち人間だからだ。当然の報いといえば、そうかもしれない。

 だから、こんな言い方しかできなかった。

「家にいるしかないんだ。しばらくは」

 放射性物質の害が失せるまで、どれほどかかるか分からない。

 だが、闇の中の声は言う。 

「ここで、そっとしておいてやってくれ。わざわざ猫を放って食い尽くさせることはない」

 それは、リュカリエールにによる鼠たちの駆除のことだ。

 闇の中から、微かなざわめきが聞こえる。

 原子炉に集まった鼠……人間たちの心にも、それなりの言い分があるようだった。

「隅から隅までやらなければ、狂った原子炉は破壊されかねないんだ」

 そのとき、鼠たちの抵抗に遭う、リュカリエールとプシケノースの姿が見えた。

 原子炉が、僕に見せている幻影だ。

 闇の中から、その声が語りかけてくる。

「諦めろ。今度は、人間たちが出てくる。おまえたちには止められない……この街の片隅で、恐れながらひっそり暮らすがいい」

 外に出て普通の暮らしを送ろうとすれば、人間たちの身体は少しずつ冒されていくだろう。

 僕の身体も、奥からうずき始める。原子炉との闘いの間に、街の中に漏れだした放射性物質に蝕まれていたのだ。

 でも、ここで退くわけにはいかなかった。

 どんなに苦しくても、これだけは言わなくてはならない。

「勘違いするな。やろうと思えばいつでもできるからこそ、やらなかっただけだ」

 原子炉が嘲笑する。

「負け惜しみを」

 いや、それは僕の覚悟だった。

「原子炉を壊してでも、僕は僕たちの居場所を守る」

 そこで、ざわめきていた鼠たちの声が治まった。

 闇の中は、再び静まり返る。

 原子炉が、代わりに答えた。

「では、住み分けということでよいかな」

 安堵の息を隠しながら、僕は頷く。

「原子炉は直せないんだ……お互い、邪魔はしないということで」

 自嘲気味の声が答えた。

「我々はカカシ……本来は、ひとりで立っているだけでいい」

 だが、それを慰める言葉はある。

「じゃあ、みんな同じだよ。僕たちは、ひとりひとりがひとりで立ってるんだから」

 そこで、いつものように意識が遠のいた。

 僕はまた、心も身体も無垢なままの、何も知らない子どもに戻っていく。

 放射線に冒される前の身体と、余計な知恵がつく前の心を持つ子どもに。

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猫と鼠と 兵藤晴佳 @hyoudo

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