(3)

 結論から言おう。ここは異世界で、この世界の人間からすればレンは異世界人で――元の世界に帰る方法はわからないらしい。


 そういう予感はすでにあったので「やっぱりな」と思うていどに留まり、さほどショックを受けなかった。ライトノベルやネット小説で一〇〇億回は見た展開だったこともある。しかし己の身に降りかかるのは――当たり前も当たり前だが――初めてであったから、レンの心臓はイヤな風に音を立てていた。


 あらゆる地名に聞き馴染みがないこと、文字や言葉はわかるものの一度たりとも目にしたことはないこと。そして、レンのいた世界には魔法なんてないことも話した。


 学長は上手く動揺を隠していたが、レンには彼女が戸惑っているだろうことは伝わる。そんな態度を見れば、次に学長がどんな話をするのかなんてことを予測するのはたやすい。


 学長は元はきらきらしていたであろう、大きな瞳を曇らせて、魔法で引き寄せた世界地図の表面を撫でた。この地図は学長が指を鳴らしただけで壁から剥がれてレンと学長の狭間にあるローテーブルへと飛んできたのである。そんなレンからすれば摩訶不思議な光景を目の当たりにして、彼女はここが異世界なのだと結論づけた。


「ごめんなさいね。こんなことはわたくしが学長に就任してから――いえ、当校が開校してから初めてのことだから」

「いえ……気にしないでください。私だっていきなり異世界人が目の前に現れたら戸惑います」


 レンは困ったように笑う。否、笑うしかなかった。不思議と怒りが湧いてこなかったのは今のところ悪意あっての行いではないらしいと肌で感じていたからだが――最大の理由は、レンが筋金入りのオタクだったからであろう。オタクなレンにとって「異世界転移」は文字通り夢物語。不安はあったがそれ以上に興奮が勝っていた。


 今のところ目の前にいる学長がいい人そうだというぼんやりとした理由もある。学長として守るべき体面もあるだろうという打算もあった。つまり、彼女は良心などに基づいて、異世界人であるレンを放り出したりしなさそうだ、という直感。だからレンは比較的落ち着いていられたのだ。


 たとえ、今すぐには帰る方法がないと言われても。


「レン、あなたのことはわたくしが責任を持って保護します。容易く『安心して欲しい』などとは言えませんが、決してあなたを放り出したりしないことは天地神明に誓います」


 ザラ・フリートウッドという学長は責任感が強いらしい。その言葉を聞いただけで、この学校はいい学校なんだろうなとレンは短絡的に考えた。今まで教師に対してなんの感慨を抱いたこともないレンにとって、この学長の態度はそれなりに感銘をもたらした。それは異世界転移という異常な状態に置かれているせいかもしれないが、ひとまず学長のことはそれなりに信用してもよさそうだとレンは判ずる。


 猜疑心にまみれることもできたが、現状、学長がレンをだまくらかしてなんの利があるのかわからないし、他人を疑い続けるのは単純に疲れる。それにずっと後ろ向きでいるだなんて、レンのガラではなかった。


「今までに私みたいな人っていなかったんでしょうか?」

「いたことは……あるらしいわ。ただわたくしが知っているのは二〇〇年ほど前にそういう人間がいたという、おとぎ話みたいな話だけなの。残念だけれど……」

「昔話レベルでしか記録がないんですね……。でも呼び出せたのだったら、元に戻したりできるのでは……」

「理論上はそうでしょう。けれども現状、机上の空論と言わざるを得ないわ。確かに遠隔地から物や人を呼び寄せる『召喚術』はあるのだけれど、それで異世界人をび出せるという話は聞いたことがないのよ」


 ということは「召喚術」がなんらかの誤作動を起こし、そして神様の気まぐれのようなものでレンは異世界へ迷い込んでしまったらしかった。レンはオタク脳で神からの使命なるものを与えられなかったことに安堵する。いきなり「魔王を倒してくれ」とか、ライトノベルにありがちな展開は御免だったからだ。


 レンは護身の心得はいくらかあるものの、基本的には非力な成人女性。魔王を倒すなんてたいそうなことはできなかったし、単純にだれかを殺害するなんて行為に手を染めるのはやっぱり抵抗感が強い。


 この世界に魔王なる概念が存在するのかは知らないが、今のところ異世界人だからといって無理難題を押し付けられる様子はない。目の前にいる学長は、こちらが恐縮するくらい申し訳なさそうな顔をしているし、そもそもレンにはなんの力も与えられていないようであった。


 レンはオタクなので、「異世界転移で神様特典・俺TUEEE!」な展開は好きだ。自己投影して妄想するまではいかないものの、主人公がそういう展開に恵まれて八面六臂の大活躍を見せるライトノベルは好きだ。だから、ちょっと――ほんのちょっとだけ――期待した。


 期待したのだが、そうは問屋が卸さない。レンには特に魔法が使えるようになった! ……という展開は訪れず、また学長からも魔力がないと断言されてしまったのだった。この世界の人間はだれであれ魔力を持つものらしく、それをもって学長はレンが異世界人なのだろうと断定したらしい。


 己が魔法なる能力を与えられなかった件については、「魔王を倒す」とかいう使命を与えられなかったからだろう、とレンはオタク脳で考えた。なんの能力も持たない人間を魔王討伐とかいう一大事業に出す輩はいないだろう。そんな業を背負わせる場合にのみ、神というやつはチート能力を与えてくれるに違いない。


 そしてレンは別に魔王を倒す使命とかを与えられる気配はない。本当に、突然異世界に召喚された。ただそれだけ。暴走トラックに轢かれたわけでもないし、この世界にくるまでに神様のような存在に会ってもいない。本当にぽんと身ひとつで異世界へ投げ出された。


 レンはそのことに理不尽を感じるより先に、「俺TUEEE」ができないことにがっかりした。異世界転移の醍醐味は「俺TUEEE」ではないのだろうか? レンはそう心の中で呟くも、もちろんそれに返事をしてくれる神様とやらは現れるわけもなかった。


「あなたを元の世界へもどす方法は探してみます。けれど……申し訳ないけれど、現状、あまり期待を持たせることは言えないわ」

「……わかりました」

「本当にごめんなさいね」

「いえ、なんか完全な偶然みたいですし、そんなにお気になさらず……」


 もし、神様が存在しているのだとすれば――もしかしたらそれはレンの、あの神社での願いを聞いていて怒ったのかもしれない。と、レンはスピリチュアルな思考に傾かざるを得ない。そう思うと目の前にいる学長に、神社での出来事を素直に告げるのははばかられた。邪念一〇〇パーセントの願いのせいで異世界転移したかもしれない、などという推測は口が裂けても言えない。


 それに、とレンは思う。せっかくの異世界だ。異世界転移してみたいと願ったところで、その願いが叶えられることなんてまずない。それが今己の身に起こっている。おまけに魔法のある異世界。不謹慎にもワクワクしてしまう。レンのオタクの心が興奮にうずくのだ。


 残念ながらチート能力は与えられなかったし、魔力に目覚めるといった展開は今のところはない。それでもレンはよかった。それにいつまでも後ろ向きにぐじぐじと悩むのはガラじゃない。せっかくの異世界なのだ。楽しむ方向で考えてみようとレンは潔く決めた。


 そんな風に「異世界を楽しむことにする」と宣言したレンを、学長は大きな目を白黒させる。


「その考えはとっても素敵だと思うわ。でも、無理はしなくていいのよ」

「大丈夫です!」


 元気よく返事をするレンに、学長はようやく眉に入っていた力を抜くことができたようだ。

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