入浴を終えて、ベッドの上に倒れこむ。

 頭の中はまだぐるぐる回っている。心が騒々しく揺らいでいる。

 楽しかった一日。不意に揺らぎ始めた心。

 あの時、本当に死にたいのかと菜乃花に問われた時。

 きっと私は見透かされていたのだ。

 菜乃花は本当に死ぬだろう。私が居なくても、ひとりで、必ず。

 まるで見透かされたように、突然、携帯が鳴り出す。咄嗟に身体を起こして携帯を手に取る。

 着信を知らせる名は、菜乃花。恐る恐る通話に出る。

「凛花ちゃん」

 携帯越しからは菜乃花の優しい声。

「どうしたの急に」

 声が揺れた。私は確かに動揺している。

「ううん、特に。……楽しかったね今日」

 四人での外出。喫茶店の後は、街中でショッピングをして、チェーン店の喫茶店の新作を頼んだり、ゲームセンターに寄ってプリクラを撮ったり。

「うん。あんなに遊んだの初めて」

 中学の時は友達なんて呼べる人間は居なかったから。そう言いかけた口を噤む。

「……私も。また遊べたらいいね」

 揺れる。見逃せないほど確かに、心が揺れる。

「あのさ」

「なに」

 まるで待ち望んでいたように、菜乃花は返事をする。

 息を呑む。緊張が肌を伝う。

「やり残したこと……ない?」

「ないよ」

 即答だった。

「凛花ちゃん、それはどういう意味?」

 責めるわけでもなく、純粋に意味を問うように菜乃花は言う。

「心中するの……後伸ばしに出来たらって思った」

 無言が続いた。

 耐えきれずに言葉を繋げる。

「ほら、ReinaとMikaみたいに……二十七になってからでも遅くないんじゃないかなって」

 苦し紛れの言葉。自分でも呆れるほど甘いと思う。それでも、今はそんな甘さに縋ることしか出来なかった。

 沈黙が続く。菜乃花がゆっくりと言葉を発する。

「私は死ぬよ。文化祭の日に」

 それは、宣告するように――

「――どうして、そこまで……」

「どうして? それは――」

 息を呑む。冷たく、淡々と菜乃花は言う。

「凛花ちゃんと東屋で会った時に、死のうとしてたから」

 菜乃花と再会を果たしたときの光景が頭を過る。

 ぼうっと湖を映す、虚ろな瞳。まるで抜け殻になってしまったように変わり果てた菜乃花の姿。

 東屋で再開したあの日、あの時。菜乃花は既に明日を見限っていた。

「それが伸びて……今に至るだけ。これでも譲歩してるんだよ。これ以上なんて無理だよ」

 まるで困ったように菜乃花は言う。

「そんなに……お母さんに会いたいの? 死んでも会えるか分からないのに」

「会えるよ」

 拒絶に近い即答。それにね、と付け加えて、菜乃花は続ける。

「もう疲れたの……生きることに。それは凛花ちゃんも同じじゃないの?」

「私は……」

「凛花ちゃんがやめるなら。私は今からいくね」

「待って」

「待たないよ。凛花ちゃんの中で答えは出てるみたいだし」

「違うの、待って。お願い」

「……して」

「なんて?」

「それなら証明して。今すぐ来て」

 通話が切れる。突然無音になった携帯をただ呆然と眺める。

 咄嗟にベッドから立ち上がる。軽く着替えを済まし、急いで家を後にした。


 夜の町は、驚くほど静かだった。

 ぽつりと明かりの付いた部屋。車の無い信号機。町を照らす月明かり。

 走る度に、じわりと汗が滲む。夏の夜を、ただひたすらに走り続けた。

 町を抜けて大美湖に足を踏み入れる。街灯は消えていて、呑み込まれそうな暗闇が少し怖い。

 足を進める。途中の東屋に菜乃花の姿が無いことを確認して、坂を登る。

 静まりかえった住宅街を進み、菜乃花の家を目指す。

 放っておけない。菜乃花をひとりで行かせたくない。私を突き動かすのはそれだけ。

 脚が重たい。今にも座りたい気持ちを堪えて、菜乃花の家の前に立つ。玄関へ近付き、インターホンを押す。

 辺りは静寂。静寂を破るように鍵の開く音が聞こえる。

「菜乃花……?」

 返事はない。ゆっくりとドアノブに手を掛ける。恐る恐る扉を開く。

 真っ暗な玄関。まるで抜け殻のように、その場に立ち尽くす菜乃花の姿。

 咄嗟に駆け寄り、小さな身体を抱き寄せる。開いた扉がゆっくりと閉じる。

 菜乃花の体温に触れると、ほっと肩の力が抜ける。

 少しの間、無言で菜乃花を抱き締めた。

 この温もりが、愛おしかった。

 この温もりだけでよかった。

 揺らいでいた気持ちが、嘘みたいに薄れていく。

「怖い」

 ぽつりと、菜乃花が零す。

「生きるのが怖いの。楽になりたいの」

「……うん」

 恐る恐る、菜乃花が私の背に手を伸ばす。

「凛花ちゃんは、私とは違うもんね」

 私には分からない。

 いじめに遭う辛さも、大好きな家族を失った痛みも。

 返す言葉が無く、ただ、菜乃花を強く抱き締めた。

「私ひとりで死ぬよ。だから、凛花ちゃんは私のことなんて忘れて」

「どうしてそんなこというの」

 離れようとする身体を、ぎゅっと抱き締める。

「私には、菜乃花しかないのに」

「そんなことないよ」

「あるよ。菜乃花との約束があったから私は生きてこれた」

 返事は無い。告白するように私は続ける。

「菜乃花のことを想いながら夜の街で弾き語りをしてた。菜乃花のことを想いながら死にたい夜を乗り越えてきた。菜乃花のことを想いながら日々を過ごしてきた。私の中は菜乃花でいっぱい」

 菜乃花を強く抱き締める。

「だから、そんなこと言わないで。私が傍に居るから。死ぬ時も、ちゃんと傍に居るから」

 精一杯の想いだった。揺れていた自分が許せなかった。

 ああ、でも、一時の夢を見た自分に謝りたい。

 夢を見させてあげられなくてごめんね。

 普通に生きてこれなくてごめんね。

 私は、菜乃花といくね。

 私の胸の中で静かに俯く菜乃花が、顔を上げる。

「凛花ちゃん……抱いて」

 返事の代わりに深いキスをする。口を塞ぐように、夢から逃げるように、深いキスをする。

「好きに使って……何してもいいから」

 そう言って菜乃花は、上目遣いで私を見る。

 頭を過るのは、あの日の私。

 啓太に同じことを言った、投げやりな私。

 暗闇に包まれた、屋内。足を踏み入れたら戻れないような暗闇。

 華奢な腰に手を回したまま、私達は暗闇の奥へと進んだ。

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