午前十一時。市営バスの車内は、閑散としていた。

 この時間にバスを利用することは滅多にない。だから、この車内の静けさはどこか不安になる。いつもこうだとしたら、利益は出るのだろうか。そんなことを考えながら窓の外に視線を向ける。過ぎゆく町並み、目に留まってはすぐに消えてゆく通行人。そんな景色を見て理由も無く感傷に浸る。

「凛花ちゃん?」

 隣。窓際に座る菜乃花が、私の顔を覗き込む。

「なに?」

「難しい顔してる」

「そう……ごめん」

「何考えてたの」

 菜乃花を見る。綺麗な栗色の髪。七分丈の白いシャツに、淡いピンクのスカート。胸元のリボンに、四つ葉のイヤリング。私服姿の菜乃花も可愛い。見ていると胸がどきどきする。思わず視線を逸らす。

「地球温暖化……について?」

「絶対うそ」

 そう言って菜乃花は小さく笑う。

 菜乃花の笑顔を見ると嬉しくなる。ずっと見ていたい。あわよくば独り占めしてしまいたいとも思う。控えめな口元。細めた大きな目。まるで困ったように笑う菜乃花の笑顔が好きだ。

「付けてきてくれたんだね」

 そう言って菜乃花は私の右耳を見る。

 そっと指でピアスに触れる。木目柄の四つ葉。真ん中にはブルーのガラスストーン。他にピアスは付けていない。もう付けることもないだろう。それ程までに菜乃花が作ってくれたピアスを気に入っていた。

「もうこれしか付けない」

「どうして?」

「お気に入りなの。菜乃花が作ってくれたから」

 そう口にして、私は菜乃花と交わした小さな約束を思い出す。

「そういえば、菜乃花にピアスを開けてあげるって前言ったよね、私」

 思い出したように、菜乃花の目が大きく開く。

「そうだったね。……でも確か、安定するまでに時間が掛かるんだよね」

「そうね。一ヶ月くらいは。二週間くらいはピアスも変えない方がいい」

「それなら諦めようかな……イヤリングでも凛花ちゃんとお揃いだし」

 そう言って菜乃花は小さく笑う。

「菜乃花がいいなら、いいけど」

「うん、大丈夫。ありがとね」

 菜乃花は決して口にはしなかったけれど、きっと私達に日が無いことを察したのだろう。

 町並みが過ぎていく。時間が進む。それは私達の終わりが近付くということ。

 過ぎゆく町並み、目に留まってはすぐに消えてゆく通行人。そんな景色を見て感傷に浸っていた理由が、少し分かったような気がした。


 バスターミナルでバスを降りる。人混みの中、地下へと続くエスカレーターに乗り、駅前を目指す。老若男女。様々な人が行き交う中、私達は進む。少し歩き上りのエスカレーターに乗る。ゆっくりと視界が開ける。人混みで騒々しい駅前に辿り着く。

 蝉の声と人混みと、灼熱の太陽。夏だ。終わりの夏。

「りんかー!」

 後ろから声が聞こえて、振り向く。

「いたいた! 合流成功~!」

 振り向いた先には、メロンパンを片手に慌ただしく走ってきた理奈と、

「思ったより早かったねー」

 同じくメロンパンを片手に小走りでやってきた綾部さん。

「これからパフェを食べに行くんじゃなかったの?」

 咄嗟に理奈に問いかける。

「理奈がどうしても食べたいって聞かなくてさ、二十分くらい並んで買ってきたんだ-」

 理奈の顔が赤くなる。

「だって、ほら、美味しいし? 別腹っていうかなんていうか」

「だから太るんだよー」

「ふ、太ってないってば! もう!!」

「そのメロンパンって、最近人気の」

「そうそう。菜乃花ちゃんよく知ってるね。並んでく?」

 菜乃花と目が合う。私は小さく首を横に振る。メロンパンの上にパフェなんて、とても食べられそうにない。

「理奈がまた食べたいだけだったりしてー」

「ち、違うし」

 そう言って理奈はメロンパンを口に含む。一口、二口、ごくんと呑み込んで三口目。すぐに食べきってしまいそうだ。

「あー、一口ちょうだいー」

 見かねた綾部さんが理奈に近付く。身体を寄せ、理奈のメロンパンを口に含む。

「わ、私も」

 同じように理奈が綾部さんのメロンパンを口に含む。頬が赤いのは気のせいだろうか。

「仲良しだね」

 嬉しそうに菜乃花が言う。

「中学の頃からの付き合いみたいだから」

 そう口にして、はっとする。菜乃花の顔色を窺う。

「そうだったね」

 その顔はどこか清々しくて、私は胸を撫で下ろす。

 突然、菜乃花が私の手を握る。最初は控えめに、抵抗がないことが分かると大胆に。

「私と凛花ちゃんは小学校の頃からの付き合いだけどね」

 ふにゃっとした菜乃花の笑顔。不意打ちだった。思わず顔がにやけそうになる。

「そろそろ行こー!」

 どちらからともなく、手を離す。

 理奈の持っていたメロンパンは既に無くなっていた。綾部さんは黙々とメロンパンを口に含む。理奈を先頭に、以前三人で寄った喫茶店へ向かう。

 駅前のビルを背に、私達は足を進める。

 立ち並ぶビル。溢れるような人混み。信号待ちのスクランブル交差点。

 私達は歩く。他愛ない会話を交わしながら。

「りんりん、さっきから見られてるよー」

「どうして?」

「凛花は美人だからなあ」

「理奈さんも綺麗ですよ」

「もう、菜乃花ちゃんったら」

「なーちゃんあたしはー?」

「もちろん歩美さんも」

「菜乃花も可愛いけどね」

 それは穏やかな土曜日。快晴の七月下旬。

 繁華街を歩くに連れて、人気が減ってゆく。

 既視感のある建物を曲がると、以前三人で寄った喫茶店が目に入った。

「苺パフェー!」

 理奈がるんるんで、私達の一足先を行く。本当に食に貪欲というか、理奈はよく食べると思う。一体その養分はどこに行くのだろうか。顔も足もお腹周りも、太ったと思うことは一度も無い。

 からんとベルが音を立てて、扉が開く。理奈に続いて店内に入る。

 女性の店員さんに案内されて、窓際の席へ向かう。前回お会いした千尋さんの姿は無い。

 自然と理奈と綾部さん、私と菜乃花の組み合わせで席に腰掛ける。

「千尋さんお休みかなあ」

 理奈が残念そうに言う。

「千尋さん?」

 菜乃花が不思議そうに首を傾げる。

「いつもよくしてくれる店員さん」

 むしろ、不在で都合がいいかもしれないと思った。

 千尋さんは、菜乃花のお母さんに似ていた。雰囲気というか、話し方、仕草もそっくりだった。そんな女性が菜乃花の目の前に現れたら、菜乃花はどう思うだろうか。考えると不安になる。菜乃花のお母さんは亡くなってしまったのだ。

 好きだった家族が亡くなってしまった時、残された人間は何を思うだろうか。

 菜乃花は追いかけることを選んだ。それが間違っているのか正しいのか、私には分からない。仕事で家を空けている、菜乃花の父は何を思っているのだろうか。菜乃花を失ったとき、何を思うのだろうか。

「あたし、パフェ食べられるかなー」

 メニュー表を広げた綾部さんが言う。

「食べきれなかったら私が食べるよ?」

 いとも簡単に理奈が言う。意識を切り替える。今はこの時を楽しみたい。

「菜乃花は?」

「半分くらいなら……いけそうかも。結構大きいんだよね」

「菜乃花ちゃん二人分くらいかなあ」

 悪戯っぽく理奈が言う。

「それは盛りすぎー」

「菜乃花は私と半分こしよう」

 私の提案に菜乃花が頷く。

 やってきた女性店員さんに注文を終えると、再び雑談が始まる。

「あと一ヶ月だねー……」

 しみじみと理奈が言う。

「文化祭終わったらどうするのー?」

 綾部さんが携帯を触りながら呟く。

「次はライブハウスとか?」

「借りられるの?」

 思わず尋ねる。

「初めからワンマンは無理だけど、ライブイベントに参加してって感じでさ、どんどんお客さん増やして、いつかはワンマンライブ!」

 嬉しそうに語る理奈。そんな理奈が、不思議と輝いて見えた。

「凛花の曲なら、全然行けるよ。きっとその先も」

「その先?」

「メジャーデビューとか! ……なんちゃって」

「ありかもー」

 賛同する綾部さんを見る。

「りんりんの曲、本当いいからさー。もっともっと練習して、あたしもベースが上手くなれば夢じゃない気がするー」

 言葉が出てこなかった。綾部さんからそんな言葉が出てくるなんて想いもしなかった。ふと菜乃花と視線が合う。菜乃花は困ったように小さく微笑んで頷いた。

 それがどんな意味を含んでいるのか、私には分からなかった。

 視線が逸れる。流れるままに未来予想図は続いていく。

 菜乃花との約束を思い出す。

 文化祭の先、私と菜乃花が生きている未来。変わらず四人で音楽を続ける私達と、高校を卒業する私達。そして、私は気付く。

 高校を卒業して、帰路を歩く後ろ姿に、菜乃花の姿が無いことに。

 通信制の仕組みがどういうものなのか、私は分かっていない。私達が高校を卒業するのと同時期に、菜乃花も卒業できるのだろうか。単位は足りているのだろうか。卒業した後、将来の夢があったりするのだろうか。もしやり残したことがあるのなら、文化祭の日を終わりとするのは勿体ないのではないか。

 心が揺らぐ。あれだけ真剣だったのに、いとも簡単に揺らぐ心が情けなかった。

 私はどうしたいのだろう。私は何を望んでいるのだろう。

 分からない。考えれば考えるほど私は分からなくなる。

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