理由

 驚いたように立ち止まった後、菜乃花は小さく頷く。

「どうして、そんなことを言うの」

 菜乃花の声色が変わる。失敗だったと反省する。取り繕うことも出来ず、私は素直に言う。

「最近の菜乃花は楽しそうだから。理奈と綾部さんと仲も良いし」

「私は楽しいよ。凛花ちゃんが一緒だから」

「それは嬉しいけれど」

「私は死にたいよ。今すぐにでも」

 足を止める。どこか遠くに思いを馳せるように、菜乃花は大美湖を眺める。

「私ね。お母さんに会いたいの。二年前に事故で亡くなったお母さんに会いたくて、だから死にたいの」

「…………」

 言葉が出てこなかった。あの優しかった菜乃花のお母さんが。現実だと受け入れたくなかった。

「お母さんはいつも優しくしてくれた。ピアノを弾くのをやめても、嫌な顔一つしなかった。お母さんが、私の支えだった」

 だからね、と継ぎ足して、菜乃花は続ける。

「凛花ちゃんが一緒に死んでくれなくても、私は死ぬよ。むしろ凛花ちゃんこそ本当に死にたいの?」

 大美湖を眺めながら、菜乃花は続ける。

「私なんかと違って、凛花ちゃんはしっかり高校に通っていて、友達だっている。音楽だって才能があって、自分で曲まで作れて。高校生でここまで出来る人は中々居ないと思う。お家のことは分からないけど、今は優しいお婆ちゃんもいて、それなのに凛花ちゃんは本当に死にたいの?」

 菜乃花は、私はさぞ幸せに満ちていると思うのだろう。

 そんなわけない。菜乃花に死にたい理由があるように、

「私にだって死にたい理由がある」

「どうして死にたいの?」

「…………」

 言えるはずがなかった。渡り歩いた夜のこと、啓太のこと。

 言うくらいなら、死んだ方がましだと思う。

 菜乃花の表情は見えない。ただその小さな背中には、確かな哀愁を感じた。

「凛花ちゃんは本当に私と死んでくれるの」

「もちろん。約束したでしょ」

 ゆっくりと菜乃花が振り向く。

 私に歩み寄り、私の胸に頭を預ける。

 綺麗な茶色の髪。確かな温もりと共に、良い匂いが漂ってくる。

「それなら、もっと私のこと使ってよ。それくらいの見返りがないと釣り合わないよ」

「そんなこと出来ると思う?」

「私のことを思うなら使って。そうじゃなきゃ、私が嫌」

 その表情は、今にも泣き出しそうで、私の心を揺さぶる。

「私、菜乃花が思っているほど、綺麗じゃないよ」

「どういう意味?」

 そっと菜乃花の腰に手を回す。

「キスだけじゃ足りない。菜乃花ともっと先のことがしたい」

 驚いたように、菜乃花は私を見ている。頬が染まっていく。

「……たよ」

 聞き逃してしまいそうな小さな声。

「なに?」

「言ったよ……好きに使っていいよって」

 息を飲む。飛びそうになる理性を抑える。

「後悔しない?」

「しないよ。好きに使って」

 返事の代わりにキスをした。

 深いキス。求めるように、求められるように舌を動かした。

 唇を離すと、糸が引いた。それさえも、愛おしかった。

「家、寄ってもいい?」

「……うん。誰もいないから」


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