日々

 最期のコードを掻き鳴らす。

 理奈のドラムが鳴り響き、演奏が終わる。

 二曲目『雨と凪』

 練習期間は二週間。それでも全体を通して目立つミスも無く、無事に演奏を終えることが出来た。

 左隣には、見違えたようにベースを手にする綾部さん。

 彼女はピック弾きをしない。どんなフレーズもツーフィンガーで引き続ける。ツーフィンガーとはその名の通り、二本の指で弦を弾く奏法だ。滑らかに、一定のリズムをキープしながら指を動かすのには、それなりの時間が必要だろう。練習を始めた当初は不慣れだった綾部さんの指の動きは、見違えるほど変わった。それは、彼女が本気で練習に取り組んだ証だ。

 黒いボブが揺れる。同時に右耳の幾つものピアスが揺れる。疲れたー、と口にし天井を仰ぐ綾部さんをただ、見ていた。

「なにー?」

「別に。指、よくもつれなかったね」

 嫌味でも何でもない、素直な感想を口にすると、綾部さんは嬉しそうに笑みを浮かべる。

「頑張ったからねー。なーちゃんもよかったよー」

 綾部さんが右隣の菜乃花に駆け寄る。

「キーボードの入りのとこ、めっちゃ痺れたー」

「あそこかっこいいよねー! 私も痺れた!」

 綾部さんと菜乃花の距離が近い。そんな二人を、理奈は嬉しそうに見ている。

 屋上で話した次の日から、綾部さんと菜乃花の距離は近くなった。正確には綾部さんの距離が。それは自然と、理奈と綾部さん、そして菜乃花、三人の距離が近くなったことになる。見ていて微笑ましい。それでも、

「綾部さん、近すぎじゃない?」

「はいはーい」

 傍から見ていても近すぎる。そっと綾部さんが菜乃花から離れる。

「あはは」

 理奈が嬉しそうに笑う。

「そろそろ終わりー?」

 綾部さんの言葉に、黒板の方を見る。

 黒板の上の壁掛け時計は、午後五時半を指している。

 理奈と目が合う。無言で頷くと、理奈が言う。

「そうだねー! 一息いれて撤収しよう!」


 それぞれが機材の片付けを終え、荷物の置いてある段差に腰掛ける。

 空調の効いた部屋。外はまだ明るく、蝉が忙しなく鳴いている。

「凛花、明日はどうする? 三曲目行っちゃう?」

「来週からでいいかも」

 焦る必要は無い。それよりも、今日の出来を、明日に繋げたい。

「おっけー! じゃあ、来週から三曲目の練習に入ろ!」

「はーい」

「わかりました」

 文化祭まで残り一ヶ月。三曲目の『四つ葉』を仕上げて、私達は最期のステージに立つ。

 他愛ない会話を交わす。こうして日々を過ごすことが出来るのも、あと一ヶ月。

「なーちゃん、何飲んでるのー?」

 菜乃花が水筒から口を離す。一息入れて、

「緑茶です。飲みます?」

「飲むーー」

 じっと綾部さんを睨み付ける。すぐに視線が合う。

「やっぱいいやー」

 綾部さんは悪戯気に微笑んで、携帯を触り出す。

 まるで私を試しているような態度に、文句を言いたくなる。菜乃花の前だから控えるけれど。

 不思議そうに首を傾げて、菜乃花は再び水筒に口を付ける。

 その様子を横目で見てしまう。

 あれから、菜乃花とは何もない。

 キスもハグも、まるで何も無かったかのように、日々が過ぎていく。

 理由は、分からない。

 菜乃花に夜のことを悟られないように、啓太のことがばれないように、と自分の中で抑止力が働いているのかもしれない。

 目まぐるしく進む日々。文化祭の日の心中。終わりは着々と近付いている。

「凛花ちゃん?」

 菜乃花の声にはっとする。

「なに?」

「そんなに見られると、飲みにくいよ……?」

 困ったように菜乃花は微笑む。

「ごめん」

「凛花ちゃんも飲む?」

「……大丈夫」

 余計に意識してしまいそうで怖かった。

 意識を逸らす。ぼうっと壁掛け時計の秒針を眺める。

 意識を逸らそうと思えば、思うほど、もう一度菜乃花の唇に触れたいと、そんな邪な感情が芽生えていった。


 四人で正門を出て、帰路につく。

 住宅街を抜けた所で、理奈と綾部さんと別れる。理奈と綾部さんの家は、私と菜乃花の家の正反対だ。必然と、私達は住宅街で別れの挨拶を交わす。

 菜乃花を家に送り届ける為に、大美湖に足を踏み入れる。じわりと滲む汗。鮮やかな緑を揺らす木々。

 二人で大美湖の畔を歩く。湖には幾つものボートが浮かんでいる。

「あと一ヶ月だね」

 小さな声で菜乃花が言う。それが何を指しているのか、すぐに理解できた。

「そうね。演奏、良くなったね」

「本当? 嬉しい」

 ふにゃっとした菜乃花の笑顔。音楽に拒絶を示していた、あの頃の姿が嘘みたいだ。

「でもきっと、練習だから上手く出来てると思うの。本番が怖い」

 菜乃花の表情が曇る。

「失敗しても誰も責めないよ」

「……きっとそうだよね。でも、皆の頑張りを無駄にしたくない」

「あまり気負いしすぎないように」

「……うん」

 自転車が私達の横を通り過ぎる。ふと、自転車通学にしようと思っていたことを思い出す。放課後は、菜乃花とこうして歩いて帰宅することが多いから、もう必要ないけれど。

「凛花ちゃん」

「なに?」

「……いつでも言ってね」

「なにを?」

「その」

 歯切れが悪い。俯く菜乃花の顔を覗く。

「……したくなったら。ハグとか……キスとか」

「……」

 不意打ちだった。あまりの不意打ちに面食らう。

「いいの?」

「うん……別に、もうしたくなかったらいいの。私、そういうのしたことないから、下手くそかもしれないし」

「そんなことない」

「本当に?」

「本当よ」

「……よかった」

 顔を赤らめる菜乃花の姿が微笑ましくて、ふと疑問に思う。

 どうして、菜乃花は死にたいのだろうか。

 生きることに疲れた、と言っていた菜乃花。

 でも今は、音楽を、日常を、心から楽しんでいるように思えた。

「菜乃花はどうして――」

 言いかけた口が止まる。それを口にしたら、何かが変わってしまいそうな気がした。

 不思議そうに首を傾げて、菜乃花は私を見る。

「ううん。なんでもない」

「教えて?」

「……その」

 真剣な瞳に、心が揺らぐ。

 揺らぎの狭間で頭を過るのは、菜乃花の言葉。

”凛花ちゃんと死ねたら、私幸せだよ”

 そう言い切った。あの日の菜乃花。

 確かめるように、私は菜乃花に言う。

「菜乃花は本当に死にたいの?」

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