意味

 朝のSHRを終えて、私の元にやってきたのは意外な人物だった。

 まだ眠気の漂う朝の教室に、梅雨の湿気。そんな教室の空気とは真反対に、彼女は生き生きとした表情でやってくる。無意識に身構える。

「テンションひくー」

 小馬鹿にするような笑みを浮かべると、綾部さんは正面の机の上に腰掛けた。

 まだ身体の追いついていない、月曜日の朝の疲労感。そんな疲労感に上乗せされて、普段より更に苛立ちが募る。

「何か用」

「別にー」

 小話をするような仲でもない、ただ一緒にバンドを組んでいるだけの間柄。

 理奈がいなければ、決して関わることはなかっただろう。

 何を企んでいるのか、何がしたいのか、いまいち分からない。

 当の本人は、行儀悪く机に腰掛けたまま、灰色の空を退屈そうに眺めている。

 何かを切り出す訳でもなく、彼女はただ、そこに居る。

 勘弁してほしい。啓太とのことで頭がいっぱいなのに。

「あそこのフレーズはもう完璧よね」

 話題を振ってみる。土日、と時間があったのだ。そろそろ仕上げて貰わないと困る。

「練習はしてみたー。何回か出来たけど、駄目なときもあるっぽいー」

 焦る様子もなく、他人事のように綾部さんは言う。

「そろそろ次の曲に行きたいのだけど」

「はいはい、がんばりまーす」

 やる気のない声色。本当に彼女は何をしに来たのだろう。ふつふつと怒りが募ってくる。

 冷静になれと小さく深呼吸をする。

 無理もない、入学した時から綾部さんは、何かと私に絡んでくる。

 気怠い朝の登校時も、次の授業に向けて教室を移動してる時も、隣に男を連れ、小馬鹿にするような笑みを浮かべて、絡んでくる。

「ところでさー」

 机の上に腰掛けたまま、窓の外に視線を移したまま、綾部さんは言う。


「あれ彼氏?」


 身体が固まる。

 私の反応を見て、目の前の彼女は、嬉しそうに笑みを浮かべる。

 どうして。どこで。咄嗟に疑問が湧き上がる。

 どうする。どうやって誤魔化す。こういう時に限って、咄嗟の答えが出てこない。

「理奈となーちゃんは知ってるの?」

 菜乃花の名前が出て、ようやく私は冷静を取り戻す。

「あれは親戚」

 私の言葉に、綾部さんは更に嬉しそうに笑みを浮かべる。

「そんな関係には見えなかったけどー」

 親戚で通す。表情で悟られないように、冷静を保つ。

「それに、あたし、何度も見てるんだよね」

「……」

 言葉を失う。可美原の北部にあるショッピングモール。中部から離れたその場所は、啓太とショッピングをするのに最適だと自負していた。何度もとなると、恐らく原因はそこ。迂闊だったと後悔する。背筋から身体が冷めていく感覚。こんな感覚はいつ振りだろう。

「何、話してるのー!」

 間に割って入ってきたのは、理奈。

 まずい、と思う。これ以上話がややこしくなるのは、避けたいのに。

「バンドのこと?」

 冷めた空気を裂くように、理奈が明るい声色で言う。

 綾部さんと目が合う。不適に笑みを浮かべて、彼女は続ける。

「そうー。相談してたとこー」

 呆気にとられる。

「なになに、どうしたの?」

「もう済んだから大丈夫ー」

「えー! 私にも教えてよー」

 私を置き去りに、会話は進んでいく。

 呆気にとられたまま佇んでいると、意味ありげに綾部さんが言う。

「また屋上でー」

「屋上?」

 チャイムが鳴る。それが私に向けられた言葉だということはすぐに理解できた。

 真っ先に綾部さんが自分の席に戻っていく。

「なんだろうね。またね、凛花」

 手を上げて返事をする。嵐のようにやってきて、去って行った喧騒に取り残される。

 六月中旬。菜乃花と心中するまで、残り約二ヶ月。

 何としてでも隠し通さなければならない。そう強く自分に言い聞かせる。

 今にも降り出しそうな灰色の空が、私の不安を煽る。


昼休みの喧騒を掻き分けて、屋上を目指す。

『また屋上で』

 その、また、が何時なのか、気がかりで落ち着かない半日だった。

 四時限目の終わり際の綾部さんの視線で、何時なのかを確信した。

 足を進める。視線は外さず、彼女の背を捉える。

 階段を上る。屋上に近付くに連れて人気が少なくなっていく。

 扉の前まで来ると、ついに二人きりになる。

 綾部さんが扉を開ける。開けっぱなしの扉を閉めて、屋上に足を踏み入れる。

「降りそうだねー」

 空は灰色のまま。綾部さんは緊張感の無い声で言いながら、屋上の先まで進み、手すりに身を乗り出す。

「それでー? ここに来るってことは、親戚じゃないって認めてると思うんだけどー」

 じっと彼女を睨み付ける。付いて行くしかなかった。無下にして、もし菜乃花に吹き込まれたら、そう考えると選択肢は一つしか無かった。

「そんな怖い顔しないでよー」

 灰色の空を眺めながら、綾部さんが言う。

「あたし、ずっとあんたと話したかったんだー」

「私は話すことなんて無いけど」

「あは、ひどー」

 声色は明るい。まるで気にしていないようだ。

「入学式の時からさ、雰囲気が違うって思ったんだよね。他の子と比べて――」

 綾部さんは更に手すりに身を乗り出す。

「大人っぽいというか。なんというかー」

 転落することを気にしていないように、小柄な身体が大きく揺れる。

「明らかに別の世界に住んでる感じ?」

 綾部さんは続ける。

「それで、去年の夏にさー、北区のショッピングモールで、あんたと男が歩いてるのを見つけたんだー。あたし、あそこでバイトしてるの」

 くるりと、小柄な身体が翻る。不思議そうに首を傾げて、綾部さんは言う。

「あれ、かなり歳上だよね。本当に彼氏?」

 否定も肯定も出来ずに、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。

 追い打ちを掛けるように、綾部さんは続ける。

「彼氏だったら、理奈となーちゃんに教えても良くない?」

「それを知ってどうしたいの」

「別にー? ただの好奇心」

 むしろ、金銭や物資が目的だったら、楽だったのに。

 ショッピングモールで歩いている所を、しかも、何度も見られたのなら、言い訳のしようが無い。綾部さんの好奇心を鎮める方法を考える。言い訳より、弱みを見せる。咄嗟に閃いたのはそんなこと。

「二人には知られたくない」

 口から出たのは、苦し紛れの言葉。

「どうして?」

「それは」

 言いかけた口を塞ぐ。

 八方塞がりだった。もう綾部さんには隠し通すことが出来ない。

 こんなことになるなら、もっと徹底しておけばよかったと後悔する。

 近場での買い物。自宅付近での待ち合わせ。啓太と出会ってからの数年間、祖母に勘付かれないように、近所の人の目に付くようなことは徹底して避けてきた。それなのに。

 幻滅した菜乃花の表情が頭を過る。

 歯を食いしばる。それだけは避けなくてはならないと全身が叫ぶ。

「恋人じゃないから」

「やっぱそうなんだー」

 落胆するわけでも、喜ぶわけでもなく、綾部さんは退屈そうに言う。

「それで、どうするつもり」

 目が合う。彼女を睨み付けたまま、私は口にする。


「菜乃花にばらすつもりなら、ここから突き落とす」


 それは明確な殺意。

 私はやる。綾部さんを殺す。そして、捕まる前に菜乃花と心中する。


 でも、それは――酷く悲しい結末だ。

 理奈の笑顔が頭を過る。真実を知った時の、菜乃花の悲しい表情が頭を過る。

 何処で間違えたのだろう。いや、初めから間違っていた。

 可美原に来る前。初めて身体を売った夜。父の慰み者になったあの日。

 どうして今まで生きてこれたのだと疑問に思う。

 道から外れて、間違いを犯し続けて、こうして生きていることが間違いだったのだ。

 ああ、だからだろうか。

『一緒に死のうよ』

 菜乃花の甘い誘惑に、私は確かな救いを感じていた。

 それは、今でも変わらない。


「そんなつもりはないけど――」

 表情を変えずに、綾部さんは続ける。

「殺したいなら、殺してもいいよー。それで、満足できるなら」

 綾部さんの目は、どこか寂しそうだった。

 ふと、身体中の力が抜ける。力なくその場に座り込む。

 それが、安堵からなのか、罪悪感からなのか、私には分からない。

「あたしさ、楽しいって思えることが殆ど無いんだよねー」

 私に背を向け、灰色の空を眺めながら、綾部さんは言う。

「でも、セックスしてる時は、不思議と楽しかったんだー。だから別にビッチとか言われても傷つかないし、同級生にどんな目で見られても平気なんだよねー。あんたが歳上の男と付き合ってるのもさ、なんていうか、そういう理由があるんじゃ無いかなーって。正直あたしには関係なんだけどさ、でも気になって」

 彼女に対する偏見が、薄れていくような気がした。

 きっと私も似たようなものだと思った。

 セックスと音楽、そして菜乃花との約束。

 その三つが私を生かしている。

 だから啓太との関係もだらだらと続けているのだろう。

 彼女にとっては、それがセックスだけだった。きっとそういうことなのだろう。

 ゆっくりと綾部さんが振り向く。

 灰色の空を背に、にまっとした笑顔を向けながら、綾部さんは言う。

「だからさ、あんたのこと教えてよ。別に誰かにばらすつもりなんてないからさ」 

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