温もり

 歌う。コードを掻き鳴らす。かつて一人で行っていたそれは、キーボード、ドラム、ベース、三つの音に支えられて、一つの音になる。

 心地良いメロディーラインをなぞるのは、硬いキーボードの音。流れるようなベースラインは、少し遅れて周りを引っ張り、理奈のドラムが支える。全体がテンポを取り戻す。

 心地良い理奈のドラムとは、正反対の綾部さんのベース。

 歌うのを止めて、手を止める。行き場を見失ったリズム隊の音が、静寂に吸い込まれていく。

「綾部さん、そこ毎回遅れてる」

 今日だけで四回目。

「そこってどこのこと」

 自覚が無いことに苛立ちを覚えるも、表に出さずに対処する。

「サビの前、三小節目辺り」

「そこ、ちょっと難しいかもね」

 フォローするように理奈が言う。確かに三小節目辺りからは、単調な動きから打って変わって、波を打つようにリズムが動く。ブランクのある綾部さんにはまだ厳しいだろうか。

「また練習しとくー」

 悪そびれた様子も無く、綾部さんが言う。

「菜乃花はもう少しリラックス。ただの練習だから」

 私の声に、菜乃花が真剣に頷く。

 正直、菜乃花の音は、硬い。あの日、私の部屋で聞かせてくれて音とはほど遠く、酷く窮屈に感じる。菜乃花自身も酷く緊張しているようだ。

 その緊張を、綾部さんに分けてあげたいと思う。今もベースを置き、携帯で誰かとやり取りをしている。

「この辺にしとく?」

「そうね」

 集まってから何度、曲を合わせただろうか。

 ギターを置き、荷物を置いた段差の上に腰掛ける。

 綾部さんはその場で携帯を触り、理奈はドラムの椅子に腰掛けたまま、楽譜に何かを書き込んでいる。

 ゆっくりと、菜乃花が私の隣に腰掛ける。

 ペットボトルを開け、水を飲む。視線を感じ、菜乃花にペットボトルを渡してみる。

「飲む?」

 驚いたように身を引き、菜乃花は首を横に振る。微かに、顔が赤くなっているような気もする。自分のバックから水筒を取り出し、菜乃花は水筒に口を付ける。

 昨日の光景が頭を過る。唇の感触は、まだ残っている。

 舞い上がりそうになる気持ちを抑える。意識を切り替えて、今日の練習を思い返す。

 初日にしては、悪くない出来だと思う。

 理奈のドラムは殆ど完璧だし、菜乃花のミスも少ない。綾部さんは途中で指がもつれたり、ミスがあるものも、数ヶ月も練習すれば大丈夫な見込みがある。

 文化祭、本番。菜乃花と心中する、最後の日。

 悔いの残らない最高の音を奏でる。

 その為に、半端な気持ちで練習はしない。

「あーだるー」

 綾部さんが気怠そうに言う。

「どうしたの?」

 理奈が心配そうに綾部さんの顔色を窺う。

「俺かバンド、どっちか選べだってー」

 見せびらかすように、綾部さんが携帯の画面を見せる。

 理奈が立ち上がり、食い入るように携帯の画面を見る。

「本当だ……ってこれ四組の内田!? え、意外」

「最近面倒くさいんだよねー。別れよ-」

 清々しい程の即決だった。

 恋人とは、そんな軽々しいものなのだろうか。

 人のことを言える立場じゃ無いけど、さすがに疑問に思う。

「誰か気になる人いるの?」

 理奈が綾部さんに尋ねる。その声色は、少し不安そうに感じた。

「ううんー正直そういうの飽きてきたー。あ、なーちゃんにしよっかな」

 不適な笑みを浮かべて綾部さんが菜乃花に近付いてくる。

 綾部さんが後ろから、菜乃花を抱き締める。

「なーちゃん、彼氏は? フリー?」

「えっと……」

 困ったように微笑む菜乃花を見て、思わず手が伸びる。

 綾部さんと菜乃花は引き離す。

「菜乃花が困ってる」

「うわー……はいはーい」

 綾部さんは菜乃花から離れて、菜乃花の隣に座る。

 理奈も綾部さんの隣に。四人で段差に腰掛ける。

「理奈は、杉山とはどうなのー?」

 ぽっと、理奈の顔が赤くなる。

「な、な、何言ってるの、もう。そんなんじゃないって」

「めっちゃ必死じゃんー。ねー、なーちゃん」

「理奈さん赤いです」

「本当にないってば……」

 小さくなる理奈。以前から噂は聞いている。

 同じクラスの杉山。長身で、確かバスケットボールに所属している。はず。

 小さくなった理奈が、

「私、恋愛とかいいから。興味ないの。本当に」

 吹っ切れたように言う。

「へえー。なーちゃん、理奈とかどう?」

「理奈さん?」

「もうー歩美! 揶揄わない!」

「はーい。つまんないのー」

 彼女のことが分からなくなる。色恋に身を焦がした、どうしようもない女かと思えば、別れる理由が飽きたから、と声高らかに言う。

 一体何が、彼女を動かすのだろうか。

「綾部さんは」

 ふと、気付けば、

「何故、恋人を作るの?」

 疑問は、口から零れていた。

 場がしん、となる。やってしまったと、はっとする。

「セックスがしたいから?」

 答えは、驚くほどストレートだった。

「三大欲求っていうじゃんー。それだけ、だけど?」

 言葉を失っていた。

「もう、オープンすぎだよ歩美!」

「隠すことじゃないしー。世間様の目があるから、一応付き合ってるだけなのでしたー」

 負い目を感じる様子も無く、清々しく綾部さんは言う。

 頭を過るのは、夜の私。

 セックスをすることが、生きる方法だった夜の私。

 目の前の彼女が、眩しい程に自由で、どうしようもなく羨ましく思えた。

「……帰る」

 荷物をまとめる。今この場に居たくない。

 同じように菜乃花も荷物をまとめる。その場を後にしようとすると、菜乃花も立ち上がる。

「また明日。戸締まりよろしく」

 理奈に押しつけて、教室を出る。

 校舎は薄暗く、街を包む夕焼けが校内を照らしていた。

 こつこつ、と二人分の足音が、薄暗い校内に響き渡る。

「凛花ちゃん」

 今にも消えてしまいそうな、小さな声。

「……なに」

「何か嫌だった?」

「ううん」

 素直に頷ける訳もなく、首を横に振る。

「調子悪い?」

「そんな感じ」

 少しの間が空いた。

「私に、出来ることある?」

 思わず、振り向く。

 菜乃花が優しく微笑む。

「どうすればいい?」

「……抱き締めて欲しい」

「はい」

 優しい声色。手荷物をその場に置いて、菜乃花が近付いてくる。

 ゆっくりと、抱き締められる。柔らかくて、温かい感触。

 その温もりは、まるで夜の私を溶かしていくように。

 温かくて、穏やかで、優しい、そんな温もりだった。

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