キス
街を包む夕焼け。じわりと滲む汗の感覚。
蝉の声はまだ追いついていない。それでもこの暑さを垣間見れば、追いつくのも時間の問題だろう。
「どうだった?」
隣を歩く菜乃花に問いかける。
「楽しかったよ。理奈さんも歩美さんもいい人だった」
「それはよかった」
曲の感想も、なんて言えるはず無く、ただ頷く。
信号待ちで、足が止まる。街を包む夕焼けを、ぼうっと眺める。
まるで夢のようだ、と今でも思う。
隣に菜乃花がいること。
一緒にバンドを組んだこと。
菜乃花に、曲を聴いてもらったこと。
一年前の私に告げ口しても、きっと私は信じないだろう。
それくらい、満ち足りている。
「凛花ちゃんの曲、素敵だね」
それは、不意打ちで――
同じように菜乃花も、夕焼けを眺めていた。
「私が弾くところもあるの?」
「勿論、作ってあるよ」
「良かった」
ふにゃっとした菜乃花の笑顔。思わず口元が緩む。
「明日から練習なんだね」
「うん。また放課後、迎えに行く」
「はい。承りました」
ふにゃっとした笑顔が、胸に染みる。
信号が変わり、足を進める。
住宅街を抜け、大美湖へ足を踏み入れる。風が吹き、緑が鼻に香る。
「ねえ、凛花ちゃん」
「なに」
「何も、しなくていいの」
「どういうこと?」
菜乃花の足が止まる。
「制服……高かったでしょ」
「何のことかわからない」
「私に出来ることがあるなら、なんでもするよ」
「なんでもって……」
菜乃花の瞳は、真剣に私を見据えている。
「例えば?」
「例えば……」
菜乃花が腕を組んで、考える。
「殴る……とか」
「したいと思う? 私が菜乃花に」
「……お金とか」
「私、バイトしてるから困ってない」
「何か無い……?」
逆に問われて、考える。
勿論、ある。でも、それは菜乃花の意思を蔑ろにしてまでしたいことかと言われると、とても困る。
父親を思い出す。それは、菜乃花の意思ですることだ。
「本当に、なんでもいいんだよ」
懇願されるように、手を掴まれる。上目遣いで、菜乃花が私を捉える。
「菜乃花がしたくないならしないから、ちゃんと言って欲しいんだけど」
息を呑むと、菜乃花と目が合う。咄嗟に視線を逸らす。
「……キスしたい」
静寂。
顔が熱くなる。どうしようもなく恥ずかしくて、今すぐこの場から逃げたい衝動に駆られる。
失言だった。そう思えば思うほど、顔が熱くなるのを感じる。
静寂に耐えきれず、恐る恐る菜乃花の方を見る。
「……っ」
目の前の菜乃花も、一目見て分かるほど、赤面していた。
「キス……」
「……忘れて」
「したくないの……?」
「菜乃花は……どう」
問いかけた言葉に、菜乃花は困ったように微笑む。
「凛花ちゃんとなら……いいよ」
返ってきた言葉は想像外で、これ以上に無いほど嬉しい言葉だった。
向き合う。離さないように菜乃花を瞳で捉える。
「待って」
突き放すように、身体を押される。
「ここじゃ嫌……家、くる……?」
足を踏み入れるのは、五年振り。目的は菜乃花とキスをする為。
後ろめたさと共に、玄関に足を踏み入れる。
玄関は暗く、靴は全く無い。荒れた庭と閉じた雨戸といい、生活感は無いに等しい。
五年前の懐かしさと、どこか感じる寂しさが混合する。
「両親は?」
私の問いに、困ったように菜乃花は微笑む。
「二人とも忙しくて、帰ってこないの」
「……そう」
残念だと思った。菜乃花のお母さんに挨拶をしたかったのに。
「部屋……くる? ここでする……?」
「部屋にお邪魔してもいい?」
菜乃花が無言で頷く。
どこまで、するつもりなのだろうか。
自分でも分からない。女同士というのも初めてで、余計に。
菜乃花の後に続いて、階段を上る。
相変わらず生活感は無い。それでも散らかっている様子は無く、よく掃除されていると思う。
菜乃花が扉を開けて、そして私は菜乃花の部屋に足を踏み入れる。
白を基調とした部屋は、綺麗に整理整頓されていて、テーブルの上には手芸用品が並んでいる。部屋の隅には、五年前を連想させる、白いアップライトピアノ。
「懐かしい」
「そんなに変わってないでしょ?」
「そうね」
菜乃花と向き合う。
「ここなら……いいの?」
「……うん」
「嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ」
菜乃花に近付く。焦る気持ちを抑え、菜乃花を抱き寄せる。
優しく抱き締めると、ゆっくりと菜乃花も私の背に手を伸ばす。
温かい。啓太とする時とは違う、女の子の身体。
柔らかくて、どこまでも包み込んでくれそうで。
「……恋人みたい」
「そうね」
「約束、覚えてる?」
頭に浮かぶのは、二つの約束。勿論、分かっている。
「一緒に死ぬよ」
「……うん」
名残惜しさを押し殺して、身体を少し離す。
顔を近づける。菜乃花の目が閉じる。
ゆっくりと菜乃花にキスをする。
菜乃花の目が開く。まだ顔が近くにあることに驚いたのか、視線を逸らす。
「おわり……?」
返事の代わりに、もう一度キスをする。
おもむろに舌を伸ばす。驚いたように一度身体が跳ねて、恐る恐る唇が開く。菜乃花の中に舌を入れる。たどたどしい大人のキスに、じわりと蜜が滲む。
厭らしい音が、響き渡る。
荒い呼吸と、キスの厭らしい音に包まれながら――
もう死んでも良いと思える程、満ち足りていく。
深く、深く、まるで五年間の空白を埋めるように、私達は求め合った。
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