水眠死
「本当にありがとうございました」
「いいえ。またいらっしゃいね」
玄関の前。菜乃花を見送る祖母の顔は、とても嬉しそうに見えた。
「それじゃ、送ってくるから」
「はいね。気を付けてね」
「お邪魔しました」
家を後にする。外はすっかり暗くなり、過ごしやすい気温に落ち着いていた。
祖母の嬉しそうな笑みを思い出し、胸が痛む。
私が死んだら、祖母はどんな顔をするのだろうか。
想像すると、何かに背中を掴まれたかのように、死への想いが薄れていくのを感じる。雑念を振り払う。思い出したくない、あの街での日々を思い出す。
門扉を閉じ、人気の無い路地を、菜乃花と歩く。
市立高校の明かりは、殆ど消えていた。それでも念の為、正門付近を通らないように迂回したルートを進む。
「本当によかったのに」
「いいの、心配だから」
「もう」
菜乃花の隣を歩く。それだけのことなのに、不思議と世界が輝いて見える。
五年振りの菜乃花の音は、何一つ変わっていなかった。
今でも練習を続けていたのではないかと疑うような、素晴らしい演奏だった。
身体が、覚えていたのだろうか。あれだけピアノが好きだったのだから、きっとそうだろうと、妙に納得する。
まるで、あの頃に戻ってきたように錯覚する。
空を見上げる。瞬く星が、死に向かう私達を見守っているような気がした。
「いつにしよっか」
それは、まだあやふやになっていること。
「死ぬ日……?」
「うん」
迷い無く頷く。
菜乃花は約束を果たしてくれた。次は私の番。
例えそれが今でも。
「……凛花ちゃんは、バンドを組むんだよね」
思わず菜乃花を見る。言葉を探していると、菜乃花が続ける。
「もう活動してるの?」
「ううん、これから。八月に文化祭があって、そこで演奏することを目標に、音を作ってるところ」
先週の顔合わせのことを思い出す。あと一週間もすれば、もう六月。リズム隊の音は理奈が上手く作ってくれると信じてる。問題があるとすれば綾部さんの演奏技術だけ。熱心に行動してくれている理奈へ罪悪感が沸く。それでも、それは私と菜乃花の死を止める理由にはならない。
「……あのね、バンド……私も一緒に出来ないかなって思ったの」
「え」
それは、思いもよらない言葉。喉から手が出るほど求めていた想いが、再び沸いてくる。
「いいの?」
「うん。だって――」
困ったように微笑みながら菜乃花は、
「対価が足りないと思うの」
はっきりと言い放つ。
「凛花ちゃんは、一緒に死んでくれるんだよね。だったらそれくらいしないとって。それに、凛花ちゃんの音楽……まだ聞けてない」
私の心に熱を灯した、菜乃花の言葉が蘇る。
「それは、嬉しいけれど……無理してない?」
菜乃花が小さく首を横に振る。
「でも、大丈夫」
「菜乃花が大丈夫なら……私は止めないけど……」
突然、菜乃花が私の手を握ってきた。
驚きつつ菜乃花を見るも、菜乃花は変わらない様子で歩き続ける。
白く小さな手を、優しく握る。繋いだ手から菜乃花の体温が伝わってくる。
「五年前に、全日制と通信制の生徒が一緒にバンドを組んで、文化祭で演奏したんだって」
「……そうなんだ。それなら、私も出来るね」
嬉しそうな菜乃花の声。
夢に見ていた光景が、脳裏を過る。
それは、確かな形となって、現実味を帯びる。
「文化祭が終わったらにしよっか」
「私も、同じ事考えてた」
ふにゃっとした菜乃花の笑顔が胸に染みる。思わず笑みが零れる。
「文化祭の夜」
呟いた言葉に、
「約束した、東屋で」
菜乃花が紡ぐ。
「今、頭の中であの曲が流れてる」
「私も。決まりだね」
足が止まる。
決行は文化祭の夜、約束を交わした東屋で。
死因は水死。頭の中で鳴り響くReinaの歌声とMikaのピアノの旋律が、私達を祝福してくれているように思えた。
五年前、約束を交わした東屋で、私達はもう一つの約束を果たす。
「ねえ、凛花ちゃん」
目が合う。長い前髪が揺れて、露わになった菜乃花の瞳が私を捉える。
「それまで、私にどんなをことしてもいいよ。嫌なことがあったら、叩いたり、殴ったり、首を絞めたりしてもいい。どんな言葉で傷つけて、どんな酷い命令をしてもいいよ。だから――」
困ったように微笑みながら、菜乃花は私に言う。
「絶対、一緒に死んでね」
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