もう一度、聴かせて

 大美湖を背に歩き出した私達は、ゆっくりと、確かに足を進める。

 向かう先は私の家。そこで、菜乃花はキーボードに触れる。

「……凛花ちゃん」

 聞き逃してしまいそうな小さな声。

「なに?」

 すぐに答えず、菜乃花は足を進める。

 ゆっくりと菜乃花が私を見る。困ったように微笑みながら、

「私、弾けないかもしれない」

 明るい声色とは裏腹に、表情は暗い。

「いいよ。弾けなくても誰も菜乃花を責めないから」

「……ずっと弾けなかったら?」

 視線を逸らして、前を向く。それは、酷く残念な結果だと思う。。

「弾けなくても、一緒に死ぬよ」

 憂いのない、真っ直ぐな言葉。

 それは、飾りでも、虚勢でもない、私の想い。

 足を進める。アップルストリートという不思議な名前の大通りを抜け、偏差値が高いと地元で有名な市立高校へと繋がる坂道を上る。市立高校の正門の東側、車一台が通れる幅の路地に、私の家はある。

 坂を上り切ってから少し歩き、市立高校が見えると菜乃花の足がぴたりと止まる。

 目の前には、集団で雑談を交わしている市立高校の生徒。

 菜乃花の瞳が、光を無くす。東屋で何度も見た、まるでここではない何処かを映しているような、あの瞳。

「菜乃花」

 瞳が輝きを取り戻す。

 目が合う。菜乃花は私のシャツを控えめに掴む。ふつふつと、不思議な感覚が込み上げてくる。

「迂回しよう」

 何度も頷く菜乃花の手を握り、踵を返す。

 なるべく市立高校の生徒の目につかないルートを進む。

 右手は菜乃花と繋がったまま。伝わるのは、確かな温もりと、じわりと滲む汗の感覚。

「ごめんね」

「謝ることない。それに」

 不思議そうに私を見る菜乃花。

「菜乃花、可愛いから、ナンパされるかも」

 きょとんとすると、菜乃花は小さく微笑む。

「もう、そんなことないよ。私より凛花ちゃんの方が大人っぽくて綺麗」

「そう? 私は菜乃花の方が可愛くて素敵だと思うけど」

「そんなことないの。凛花ちゃん……手慣れてるみたい」

「菜乃花にだけはストレートに伝えてる」

「もういいの、終わり」

 照れくさそうな菜乃花。菜乃花の雰囲気が柔らかくなったのを感じる。

 市立高校の生徒と遭遇すること無く、無事に自宅の前までたどり着く。

 門扉を開き、敷地内に入る。通学用のスクールバックから鍵を取り出し、鍵を開ける。

 扉を開くとすぐに、食欲を促す匂いが漂ってくる。

「あら、おかえり」

 玄関に足を踏み入れると、ダイニングからエプロン姿の祖母が顔を出す。

「ただいま。友達連れてきたから、夕飯、後で大丈夫」

「はいね。凛花ちゃんがお友達を連れてくるなんて珍しいねえ」

 満面の笑みを浮かべる祖母。なんだか照れくさい。

「お邪魔します」

 小さくお辞儀をする菜乃花。見慣れたこの家に、菜乃花が居ることがまるで夢みたいだ。

「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」

 祖母は微笑みながら言うと、今度は思いついたように、

「よかったら、夕食、食べていくかい」

「えっと」

 祖母の提案に胸が躍る。なんなら泊まっていけばいい。言いかけた言葉を呑み込み、

「菜乃花の家が大丈夫なら、一緒にどう?」

 悩んでいた菜乃花が、顔を上げる。

「家は……大丈夫です。お言葉に甘えます」

「はいね。食べる時になったら教えてね」

 ダイニングに戻る祖母。私達は靴を脱ぎ、玄関に入ってすぐの階段を上る。

 階段を上って手前の部屋は、亡き祖父の部屋。今は私の機材が置かれていて、実質私の物置と化している。手前の部屋を通り過ぎ、奥の部屋の扉に手を掛ける。

 扉を開けると心地の良い風が吹き入れる。見慣れた部屋。ギターや機材が並ぶこの部屋は相変わらず女性らしさが薄い。

「わあ……すごい」

 驚いたように、菜乃花が扉の前で立ち尽くす。

「少し窮屈かも、ごめんね」

「ううん。ミュージシャンみたい」

 そう言って菜乃花は、ギターが掛けられたギタースタンドに向かう。

 二本のエレキギターと、一本のアコースティックギター。

 ギタースタンドの奥の壁に掛かっているのは、幼い頃、母に買って貰ったアコースティックギター。思い入れはやっぱり消えない。母は元気で過ごしているのだろうか。父のことも、私のことも忘れて、幸せに過ごしているのなら、何も言うことはない。ギタースタンドの右隣には、パソコンデスク。その間のアンプを挟むようにベッド。

「……これは何?」

 ギタースタンドの左隣には、開きっぱなしのエフェクターケース。

「エフェクター。ギターの音を変える機材」

 菜乃花はしゃがみ込み、エフェクターを眺める。

「カラフルで可愛い」

「一つ持ってく?」

「私、ギター弾けないよ」

 ふにゃっとした菜乃花の笑顔。釣られるように笑みが零れる。

「バイトしてるの?」

「うん。どうして」

「こんなに機材があったら、お金掛かるんだろうなって」

「そうね。音楽くらいしか趣味がないから」

 ふと、後ろめたさに駆られる。頭に過るのは、啓太との関係。

 ギタースタンドに掛けられたストラトは十万。その隣のテレキャスは二十五万。幾つもあるエフェクターだって、一つ一万円近くする。勿論、バイトもしているけれど、それだけでここまでの機材は揃えられない。

「……キーボード」

 聞き逃してしまいそうな小さな声。

「本当にあるの……?」

 菜乃花の表情が陰を帯びる。

「うん。持ってくる」

 小さく頷く菜乃花に背を向けて、部屋を後にする。

 隣の部屋へ足を踏み入れる。使わなくなったアンプの上に置かれた、白いキーボード。

 購入してから数回しか触れたことがないキーボードは、埃を被っていた。二年に進級してすぐに、菜乃花との日々を思い出して、半ば衝動的に購入した物だ。

 まさかこのキーボードに、菜乃花が触れる日が来るなんて。

 キーボードの埃を払う。落とさないように抱えて、部屋に戻る。

 部屋に戻るとすぐに、ギターを眺めていた菜乃花と目が合う。

 菜乃花は困ったように微笑みながら、視線を下げる。

 そっと、カーペットの上にキーボードを置く。

「……弾いてたの?」

「二年に進級した時に、菜乃花のことを思い出して――」

 驚いたように目を開く菜乃花。

「気付いたら通販で買ってた」

「どうして……」

 菜乃花の視線が下がる。長めの前髪が、菜乃花の瞳を隠す。

「そんなに、私のことを」

「どうしてって言われても、私にとって菜乃花との日々は……」

 言葉に詰まる。菜乃花との日々が、約束が、私の生きる意味だと告白したら、それは菜乃花にとっての重荷になってしまわないだろうか。

 喉元まで出掛かった言葉を呑み込む。

 曖昧で、それでも同じくらいの意味を含む言葉を考える。

「菜乃花が思っている以上に、大切なんだよ」

 驚いたような菜乃花の表情。

「失敗しても誰も責めないから……もう一度弾いてみて」

 目が合う。菜乃花は小さく頷く。

 ゆっくりと菜乃花がキーボードの前に座る。私も同じように菜乃花の隣に寄り添う。小さな手は膝の上のまま、菜乃花はじっとキーボードを見つめる。菜乃花とキーボードの間には、まるで見えない壁があるように見えた。荒くなる菜乃花の呼吸に気付く。明らかに緊張している菜乃花を前に胸がちくりと痛む。

「ずっと思ってたこと言ってもいい?」

 救いを求めるように菜乃花が私を見る。肯定と捉えて、口を開く。

「きっと、誰もピアノが弾けないから、菜乃花が伴奏に選ばれたんだよね」

 それは、酷く身勝手に思えて――

「だったらさ、弾けないやつに菜乃花を責める資格なんてないよね。文句があるなら自分がやれって話じゃん」

 菜乃花が驚いたように私を見る。

 そっと、菜乃花の手を握る。雪のように白くて小さな手は、冷たくて微かに震えている。

「……初めて菜乃花と出会った日、私ね」

 それは、今でも鮮明に覚えている記憶。

「菜乃花の優しさと、菜乃花と奏でる音に救われた。私、ずっと父に虐待されてた。いつの間にか、感情なんて無くなって……学校ではいつも一人。家に帰れば父が居るから、どこにいても地獄だった。そんな私に、菜乃花は優しさと音をくれた」

 母の後ろに隠れてた時、菜乃花は私に優しく歩み寄ってくれた。

 一緒に音を奏でた時、菜乃花の奏でる音に心の底から惹かれた。

 菜乃花が私の歌を褒めてくれた時、生きててよかったって初めて思えた。

 あの頃の記憶を胸に、ゆっくりと、小さな手をキーボードの上に添える。

「だから……もう一度、聴かせて」

 強い風が吹き入れる。綺麗な茶色の髪が揺れる。

 涙の滲んだ瞳が、キーボードと向き合う。


 ここにあるのは、静寂。

 静寂は妙に穏やかで、不思議と五年前を連想させる。

 大空へ飛び立つように、菜乃花の手が離れる。

 私は彼女に寄り添い、彼女は小さな翼を広げる。

 指先が鍵盤に触れる。確かめるように音に触れながら――

 菜乃花はあの日の曲を奏でた。

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