約束
「……どうして?」
口から零れた言葉は、確かな動揺を含んでいた。
菜乃花がゆっくりと湖に視線を向ける。
「どうして……うーん」
その瞳は、ここでは無い何処か遠くを映しているように見えた。
菜乃花の過去を、詳しくは知らない。いじめのことも、その後のことも。どんな目に遭ったのか、何を思ったのか。傷の痛みも、心の痛みも、私は知らない。いや、話してくれたとしても、私には到底理解が出来ない。だって、それは菜乃花にしか分からない。
「生きることに疲れたから」
それとね、と菜乃花は続ける。
「……会いたい人がいるの」
その声色は、
「だから、死にたいの」
希望を抱いているように真っ直ぐで、
「……凛花ちゃんは?」
言葉に詰まる。
「私は……」
思い返す。可美原に来る前の日々を。
普通を演じながら、自宅に帰らずに男の家を渡り歩く日々。
死にたいと思うことは、多々あった。
それでも、男に抱かれている間は、ここが私の居場所だと、そう思えた。
男とする時は、父とする際に蝕んでくる、嫌悪感も、罪悪感も感じなかった。
何より、私には菜乃花との約束があった。
可美原での菜乃花との日々。初めての優しさと、穏やかな一時。
不意に辛くなる夜も、自分の境遇を呪う朝も、菜乃花との日々を胸に、乗り越えてきた。
いつか、また菜乃花と音を奏でる。それだけを頼りに生きてきた。
それだけが全てだった。
「……生きてる理由が無いから」
捻り出した言葉は、酷く軽く感じた。
「それには、生きることに疲れたって理由も含まれていると思う」
菜乃花と目が合う。
「……凛花ちゃんの」
菜乃花の視線が下がる。窺うように、菜乃花は続ける。
「お母さんは元気……?」
思わず目を見開く。
「お父さんは……?」
「どうして?」
「ご両親の仲が悪かったから……五年前、凛花ちゃんはこの街に来たんだよね」
「……そうね」
「今は……どうなのかなって」
上手く言葉が出てこなかった。それを口にするのには、幾らかの勇気が必要だった。肺からゆっくりと息を吐き、唾を呑む。
「母は……私を置いて逃げた。父は……」
言い淀む私を、菜乃花は心配そうに見ている。
吹っ切れたように、何かが外れる。
「…………私、虐待されてたの。それで、ばっちゃに引き取られた」
それは、溢れるように口から零れ落ちた。
「……凛花ちゃん」
どうして、菜乃花が泣きそうな顔をしているのだろう。
簡単に口にしてしまったことに、自分で驚いた。
誰にも話すつもりなんて無かった。菜乃花にすら、隠そうとしていた。
そんな過去を、つい口にしてしまった。
ゆっくりと菜乃花が近付いてくる。
それは唐突に、温かい感触が私の身体を包む。
男の人と違う柔らかい感触。心地よくて、身体中の力が抜けていくような、不思議な感覚。思わず涙が零れそうになる。更に温もりを求めるように、そっと菜乃花の背中に手を伸ばす。
私達は、ただひたすらに抱き締め合った。
オレンジ色に染まる空。穏やかな風と、確かな温もり。
じわじわと、菜乃花の身体の感触が肌に伝わってくる。理性が飛びそうになる。菜乃花をそんな目で見ている自分が、酷く醜悪に感じた。
「一緒に死のうよ」
身体が跳ねる。それは、甘い誘惑のように、甘美な響きで。
「凛花ちゃんと死ねたら、私幸せだよ」
もう、なんでもよかった。
この温もりに触れられるなら、死さえ厭わないと、そう思えた。
「いいよ」
驚いたように、菜乃花が顔を上げる。
離れてしまわないように、菜乃花を抱きしめたまま、
「その代わり、お願い聞いてくれる?」
続きを求めるように、じっと見つめてくる瞳を、真っ直ぐ捕らえる。
それは、ずっと夢見たこと。私の生きる理由。
離さないように抱き締めて、求め合うように見つめ合いながら、私は口にする。
「あの日の約束を果たして」
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