どうか

「お待たせ」

 じわりと滲む額の汗を拭う。

 学校終わりの夕刻。東屋から湖を眺める菜乃花が、ゆっくりと振り向く。

「凛花ちゃん」

 明るい声色。駆け足で蓄積された疲労感を吹き飛ばすように、ぱっと胸が晴れるのを感じる。

「遅くなってごめん」

「ううん、丁度来たところだから。学校お疲れ様」

 やはり徒歩だと、高校から大美湖の東屋まで三十分は掛かってしまう。

 そして、この東屋から自宅までも、おおよそ三十分。

 祖母の勧めでバス通学にしていたが、思い切って自転車通学に変えよう。その方が、菜乃花と会うにも都合が良い。

「ありがとう」

 返事をして、二人で湖を眺める。仄かに冷たい風が頬を撫でる。静かに揺れる水面が、どこか『水眠死』を連想させる。

 綺麗な茶色の髪が揺れる。菜乃花の耳元が微かに光る。

「ピアス?」

 ああ、と納得したように、菜乃花が自分の耳に触れる。

「イヤリングだよ。ピアスは……自分で開けるの、怖くて」

「開けてあげようか」

「……いいの?」

「うん。ピアッサー使えば簡単だから。私も開いてる」

 髪を掻き上げて、菜乃花に左耳のピアスを見せる。

「5つ……?」

「うん。中学生の時に」

「凛花ちゃん悪い子だ」

 ふにゃっとした菜乃花の笑顔。鼓動が早くなる。

「そうかも。そのイヤリングどこで買ったの?」

 菜乃花が自分のイヤリングに触れる。四つ葉のイヤリングが揺れる。木目柄の四つ葉。その中心には、ピンクのガラスストーン。

「これは……作ったの」

「え?」

「お母さんに教わって……趣味でたまに作るの」

「凄い……てっきり店売りの物かと」

「凛花ちゃんのも作る?」

「いいの?」

「うん。少し時間掛かるかもだけど」

「全然良い。お願いできる?」

 大きく頷く菜乃花。

「お願いされました」

 嬉しそうな菜乃花の表情に、思わず笑みが零れる。

 自分が自分ではないみたいに、菜乃花の一つ一つの言動に、感情が揺れる。

 本当に菜乃花は特別だと、痛感する。

「After death……知ってたんだ」

「うん。凛花ちゃんも水眠死が好きだなんて、びっくり」

「ボーカルのReinaのこと……知ってる?」

 一瞬、菜乃花の表情が固まる。

「知ってるよ」

 返ってきた言葉と笑みからは、どこか妖艶を感じた。

「ギターのMikaさんのことも」

 菜乃花は続ける。

「凛花ちゃんは、どう思った?」

 思いがけない質問に、思考を巡らす。

 彼女たちの結末は、酷く悲惨で、それでいて――綺麗だった。

 本物のアーティストだと思った。彼女たちを超えるアーティストは、私の中では現れないのだろうと、そんな気さえしている。

「……素敵だと思った。綺麗だって」

 菜乃花は驚いたように、私を見ている。

 失言だったのかもしれない。それでも、それは確かな私の想いだった。

「……水眠死は、Reinaの遺言だと思ってる。最後の歌詞、覚えてる?」

 織りなす歌詞は、微かな救いを求めていて、

「……どうか嘆かないで、私は幸せだから」

「うん。過去形じゃ無いでしょ? だから、私はReinaに未練は無かったと、勝手に思ってる」

 それでも最後は『私は幸せだから』で完結している。

 深い水の底。微睡むように薄れていく意識。微かな救いと、確かな幸福。

 Reinaの死因は公表されていない。それでも、きっと彼女は満ち足りながら、最後を迎えたのだろう。

「凛花ちゃんは……」

 確かめるように菜乃花は続ける。

「……死にたいの?」

「どうして?」

「だって……」

 菜乃花が下を向く。彼女の見に纏った空気が変わる。それは、確かな温度のように、肌に伝わってくる。

「羨ましそうに話してたから」

 声色が変わる。菜乃花がゆっくりと顔を上げる。

「凛花ちゃんも死にたいのかなって」

 含みのある笑みからは、確かな自嘲を感じた。

「菜乃花は死にたいの?」

 目が合う。真っ直ぐと私を見つめたまま、菜乃花は言う。

「うん。死にたいよ」

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