願い
まだ消えない疲労感を抱えて、廊下を歩く。
歩く度に、股関節から脚にかけて、酷い筋肉痛が襲う。
軽率だったと思う。今朝は啓太が車で送ってくれたお陰で何とかなったが、日常に支障をきたしているのは明らかだ。次からは向こう見ずな行為はしないと反省する。
視線を感じる。辺りを見回すと、行き交う生徒の中、彼女と目が合う。
――綾部歩美。
黒髪のボブから覗く、右耳の幾つものピアスが揺れる。隣には長身の男子。
「お疲れですかー」
すれ違い様に、不敵な笑みと共に彼女が呟く。
「ん? どして?」
不思議そうに隣の男子が、彼女に問う。
「なんもー」
言葉を交わすこと無く、足を進める。相手にするだけ無駄だ。
小馬鹿にするような、彼女の物言いが、私は嫌いだ。
微かな腹立たしさを胸に教室に入ると、すぐに理奈と目が合う。一目見て分かるほど、理奈の表情が晴れる。友人達を置き去りに、真っ直ぐ私の元へやってくる。
「バンドの話、進めて良いって本当!?」
視線を感じる。さっきまで話してたであろう理奈の友人達の視線が刺さる。
「そ、そう言ったはずだけど」
あまりの熱量に後ずさると、理奈が手を握ってくる。
「本当にいいの!?」
「……やっぱりだめ」
「……」
急な勢いで真顔になる理奈を見て、思わず笑ってしまいそうになる。
「嘘よ」
「りんかあ!!」
飛びつくように抱きつかれる。甘い香水の匂いが、今日は特段、心地良い。
「私、頑張るから! 絶対、後悔させないから! 本当にありがとう!」
抱きついたまま、更に身体を密着させてくる理奈。
正直な所、こんなに喜んで貰えるなんて思っていなかった。
理奈の嬉しそうな表情が見られてよかった、としみじみ思う。
教室に入りたそうなクラスメイトの視線に気付き、出入り口からそっと理奈を移動させる。鼻の下を伸ばす男子の視線が煩わしい。周りの迷惑だと気付いた理奈が、私から離れる。
「ごめんごめん」
照れくさそうに笑う理奈。つい口元が綻ぶ。
バンドを組む決意をした理由の一つは、理奈への罪滅ぼし。
一時の感情に飲まれて、理奈を傷つけてしまったことへの贖罪。
もう一つは――
「りんかりんか、今週の土曜とか空いてる?」
「土曜は大丈夫。日曜はバイトがある」
「それなら、土曜に顔合わせしよ? ほら、歩美も呼んで」
綾部歩美。その名前を聞くと、思わず顔に出そうになる。
ぐっと堪えて、平常を装う。
どうして理奈が歩美のことを気に掛けるのか、正直、理解が出来ない。
「そうね」
「やったー! グループ作ってまた連絡するね」
「うん」
理奈は嬉しそうに頷くと、一転して、申し訳なさそうな表情で続ける。
「菜乃花ちゃんは……どうする?」
答えは決まっている。
バンドを組む決意をした最後の理由は、菜乃花のこと。
約束が、菜乃花に辛い過去を思い出させてしまうのなら、
「菜乃花は抜きでやる」
すんなりと出てきた言葉とは裏腹に、胸が張り裂けそうになる。
「……本当にいいの?」
「いいの。スリーピースだと少し物足りないかもしれないけど」
「それは……きっと大丈夫。凛花の曲なら、みんな聴き入っちゃうよ」
「そうだといいけれど」
「大丈夫、大丈夫!」
その根拠はどこから来るのだろう。それでも、今はその根拠が心強い。
「それじゃあ、また後で」
「うん! ありがとね凛花!」
友人達の元へ戻る理奈を横目に、自分の席へ向かう。
席に座り、窓の外に視線を向ける。目に入るのは、緑豊かな大美湖。
菜乃花からの連絡は、まだ来ない。
まだ、なのだろうか。もう、来ないのだろうか。
それは一種の拒絶のように思えた。
きっと菜乃花は記憶から消してしまいたいのだろう。
あの日の約束を――私を。
放課後になると、真っ直ぐ大美湖へ向かった。
五月中旬。桜の気配は完全に消えて、大美湖の自然は更に緑を帯びていた。
季節の流れを、目と肌で感じる。暑い季節は苦手で、少し憂鬱な気分になる。
足を進める。辛い筋肉痛に耐えながら、菜乃花と再会した東屋を目指す。
これで、終わりにしよう。
東屋に菜乃花がいなかったら、菜乃花のことはしばらく忘れよう。
そんな決意を胸に足を進める。
脳内に鳴り響いているのは『水眠死』
ReinaとMikaが紡ぐ、死への歌。
彼女たちの紡ぐ死が、あの頃の記憶を呼び起こす。
可美原市を後にしてからの日々は、最悪だった。
激しさを増す父の暴力。耐えることのない喧嘩。帰ってこなくなった母。
母が家を飛び出すことは珍しいことではなかった。だから、あの日、母が私を置いて家を飛び出したことも、その日は特別気にしていなかった。
自宅で父と二人きりになる度に、父は私に性的虐待を加えた。
最初は口淫。
酒の入っていない日は優しく。私を慈しみ、まるで指導をする教師のように。
酒に溺れた日は乱暴に。頭を掴み、嘔吐く程深く、まるで物を扱うように。
身体が大きくなるにつれて、身体に触れられることも増えた。
日に日に酷くなっていく性的虐待を前に、幼いながらに私は感情を殺した。今、母が帰ってきませんように。そう祈りながら、父の行為を受け入れた。
性的虐待は続いた。
母が帰ってこなくなってからは、毎日のように。
正式に離婚が決まってからは、本格的な地獄の始まりだった。
中学生になると、私は知らない男に身体を売ることで父から逃げた。
あの街に、頼れるような友達や親戚はいなかった。一夜の宿と引き換えに、身体を売って過ごした。相手が見つからないときは、夜の公園で一夜を明かした。
そんな日々の中、私を支えるものはただ一つ。菜乃花との約束だけだった。
可美原市での日々に思い焦がれ、約束に縋って生きてきた。
どんなに嫌なことがあっても、菜乃花の優しさが、温もりが、約束が、私を生かしてくれた。
それだけが、私の全てだった。
東屋が見えてきた。
瞳に映るのは、あの頃と変わらない景色。
変わってしまったこともある。変わらないといけないこともある。
それでも、私の想いは、あの頃と変わらない。
東屋に近づく。
祈るように目を瞑り、恐る恐る目を開ける。
綺麗な茶色の髪が揺れる。
彼女の後ろ姿を前に、走り出す。
下半身の痛みを殺し、急いで彼女の元へ向かう。
「――菜乃花!」
小さな背中が、驚いたように跳ねる。
茶色の髪を靡かせながら、菜乃花が振り向く。
「……凛花ちゃん」
菜乃花が居た。それだけでどうしようもなく心が晴れる。
まるで夢を見ているようだった。それでも、確かに菜乃花はここに居る。
焦らないように、ゆっくりと菜乃花に歩み寄る。
「迷惑を掛けてごめんなさい」
立ち止まる。菜乃花の口から出てきたのは、思いも寄らない謝罪の言葉。
「迷惑だなんて、思ってない」
「本当にごめんなさい」
深く、頭を下げる菜乃花の姿に、胸が痛む。
「……私こそ、ごめん」
ゆっくりと、菜乃花の頭が上がる。
「どうして謝るの」
「嫌なことを思い出させたから」
面食らったように、一瞬、菜乃花の目が開く。
「理奈さんに、聞いたの?」
言い淀む私に、菜乃花は続ける。
「見覚えがあるって思ってたの。やっぱりそうなんだね」
困ったように微笑む菜乃花。私は正直に話す。
「そう、理奈から……聞いた」
「……そっか」
背を向ける菜乃花。表情は見えない。ゆっくりと歩み寄り、菜乃花の隣に立つ。
「どこまで聞いたの」
責める様子は無く、菜乃花は続ける。
「凛花ちゃんは、どこまで知ってるの」
菜乃花の負担にならないように、言葉を選ぶ。
「詳しくは知らない……合唱コンクールのこと。その後のこと……」
「――凛花ちゃんは……」
菜乃花に視線を向ける。
「幻滅しないの……?」
自嘲するような言い方。困ったような笑みは、不安を表しているように見えた。
「幻滅?」
「うん」
「幻滅することなんて、何一つ無い」
「……どうして?」
「どうして……って」
言葉をたぐり寄せる。理屈では無く、その根拠を探る。
「私にとって、菜乃花は特別だから」
真っ直ぐ伝える。菜乃花の視線が上がる。目が合う。
「この街であなたと過ごした時、私はあなたに救われた。あなたの優しさに救われた」
菜乃花の目が大きく開く。まるで困ったように視線が下がる。
「……大袈裟だよ。私、そんな大したことしてない」
「菜乃花はそう思うかもしれないけど、私は確かに救われた」
菜乃花の視線が湖へ向く。その瞳は、ここでは無い何処か遠くを映しているように見えた。頭を過るのは、東屋で菜乃花と再会したあの日。湖をぼうっと見つめる、菜乃花の虚ろな瞳。
「一つ聞いてもいい?」
菜乃花を呼び止める。瞳が光を取り戻す。少し遅れて菜乃花が私を見る。
「……なに?」
この数日、ずっと胸に引っ掛かっていたことを私は菜乃花に聞く。
「菜乃花は、どうして連絡をくれなかったの」
気まずそうに視線を逸らす菜乃花に続ける。
「私とのこと、忘れたかった? 会いたくなかった?」
「そんなことない……」
「それなら、どうして」
重い沈黙。それでも、静かに菜乃花の言葉を待つ。
意を決したように、菜乃花の唇が動く。
「……私がいても、いなくても、凛花ちゃんは平気だと思ったから」
風に飛ばされてしまいそうな小さな声は、確かな寂寥を含んでいた。
「どういう意味?」
私は静かに答えを待つ。
「義理だと思ったの。連絡先を交換しようって言ってくれたこと。だから連絡しなくても、気にしないって思った……」
「怒った」
「……ごめんなさい」
「嘘よ」
「……もう」
「言っとくけど、凄く落ち込んでた」
「そうなの……?」
「そうよ。だから、菜乃花と再開できたときは本当に嬉しかった。正門付近であなたを見つけた時はすぐに教室を飛び出した」
「なんか、それ、恋してるみたい」
「頬にキスしたの覚えてる?」
「もう」
困ったように微笑みながら、菜乃花はゆっくりと湖に視線を向ける。
菜乃花の空気が柔らかくなったのを感じた。
菜乃花と同じように湖に視線を向ける。
静かに揺れる水面。優しく頬を撫でる風。
「……バンドやるの?」
「うん。本当は菜乃花としたかったけれど」
「……ごめんね」
「気にしないで。こうして話せるだけで、十分だから」
それは、紛れもない本心。
「ピアノは……もう弾けないの」
「……そう。仕方ないと思う」
こうして傍に居られるだけで、十分だ。
その小さな身体で、思い出したくない過去に、今も苦しんでいるのだろう。
そんな菜乃花に、無理強いをする資格なんて、私には無い。
念願の約束。たとえ、その約束が叶わないとしても、私は菜乃花の傍に居よう。
今は、ただそれだけが、私の想いだった。
心地の良い風が、私達の間を駆け抜ける。
緑の葉が揺れる。風を追うように、空を見上げる。
「ねえ、凛花ちゃん」
同じように空を見上げていた菜乃花が言う。
その声は、まるで五年前のあの日を連想させるようで――、
あの日の影が重なる。
綺麗な茶色の、長めの前髪が揺れる。
「こんなこと言う資格なんてないのかもしれないけど」
目が合う。どこか控えめで、それでいて真剣な、菜乃花の瞳に吸い込まれる。
「凛花ちゃんの音楽……聴いてみたい」
その言葉は、
「……私に聴かせて」
私の心に熱を灯す。
五年前、この東屋で、約束を交わした時のように。
弾けなくなったピアノ。再会の東屋。
変わってしまったものと、変わらないものを確かに感じながら、
私の時は、今、確かに動き出した。
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