過去
スマートフォンの通知音で目が覚めた。
こんな夜更けに珍しい。妙にはっきりと通知音が聞こえたのは、まだ眠りが浅かったからだろうか。
ダブルベッドの隣には、背を向けて眠る啓太。なるべく音を立てないように、ゆっくりと身体を起こす。身体を起こしてベッドから降りようとすると、上手く脚に力が入らない。立ち上がれなくなるまで行為に耽った身体はまだ微かに火照っている。本当に馬鹿だと思う。
なんとかベッドから降りて、ふらふらな足取りで、寝室を出てすぐの居間へ向かう。
真っ暗な部屋。閉じたカーテンの隙間から差し込んだ月明かりが、そっと私の足下を照らす。テーブルの上に裏返しに置いたスマートフォンを手に取り、画面を開く。
『起きてる?』
理奈からだ。メッセージに書かれた文字をなぞり、パスコードを打ち込む。
『うん』
返信をすると、すぐに既読が付いた。
『少し通話できる?』
『いいよ』
ベランダに向かおうとして、自分が全裸なことに気付く。
おぼつかない足取りで寝室に戻り、床に散らばった下着を手に取る。
「どした?」
重たい瞼を擦りながら、啓太が目を覚ました。
「友達と電話してくる」
「ん……そこに掛かってるシャツ、着てもいいから」
「ありがと」
部屋着は自宅から持ってきていないし、制服を着るのは面倒くさい。
啓太の言葉に甘えて、ハンガーに掛かった白いシャツを羽織る。
サイズは大きめ。それでも、ベランダに出るだけなら、パンツまで隠れる長い丈はむしろ好都合だ。
啓太を起こさないように、静かにベランダに出る。段差に腰掛けて一息つく。脚が軽くなる感覚が心地良い。明日の筋肉痛が心配だ。
スマートフォンを開くと『かけていい?』と、理奈からメッセージが来ていた。
返事の代わりに、理奈に通話を掛ける。すぐに理奈が通話に出る。
「……凛花」
「急にどうしたの」
通話越しの空気は、なんだか重たい。
「凛花に話さないといけないことがあって」
「こんな時間に?」
「うう……ごめん」
「別に責めてるわけじゃない」
「もしかして、寝てた?」
「……ううん。寝付けなかったところ」
「そっか……よかったあ」
「それで?」
少しの間の後、
「菜乃花ちゃんのことなんだけど……」
「担任に何か言われた?」
「そうじゃなくて……」
要点が掴めない。思考を巡らせていると、理奈が口を開いた。
「菜乃花ちゃんとね」
「うん」
沈黙。町を照らす月を見上げながら、理奈の言葉を待つ。
「中学が一緒だったんだ」
思考が止まる。
だってそんなこと、初めて聞いた。
「一緒のクラスになったことは……ないんだけど」
「どうして黙ってたの?」
「知らなかったの。凛花の言ってた子が菜乃花ちゃんだって」
そうじゃない、と言いかけた口を閉じる。
昇降口で菜乃花のことを知ったときに、どうしてすぐに言わなかったのか。
追求しようにも、とりあえず理奈の話を聞いてみる。
「それで?」
「うん……それでね」
言葉を待つ。意を決したように理奈が息を吸う。
「菜乃花ちゃん……中学の時にいじめられてて」
頭を殴られたかのように、
「中一の合唱コンクール。一組の伴奏者を任されたのは菜乃花ちゃんみたいで。でも本番でピアノが弾けなくなっちゃって……それが原因みたい。後から聞いた話だと、本番前にも何度かいじめの主犯格と揉め事があったって。だから、今日は――」
追いついていない思考に構わず、理奈は続ける。
「その時のことを思い出させちゃったんだと思う……」
言葉を失っていた。
流れ込むように、菜乃花の優しさが頭を過る。
初めて会った日も、一緒に音を奏でる日々も、別れの日の東屋でも、菜乃花はいつも優しくて、私のことを気遣ってくれた。
信じたくない、見たくない光景が頭に流れ込んでくる。
暴言を浴び、ひとり俯く菜乃花の姿が頭に焼き付く。
ふつふつと怒りが沸いてくる。
怒りは締め付けるように頭を掻き乱す。酷く頭が重たくて、思わずその場で下を向く。
憎い。殺してやりたいほど憎い。
勝手だと思った。ピアノを弾けないくせに。出来もしないくせに失敗を棚に上げて、あんな風になるまで菜乃花を追い込むなんて。
唇を噛み締める。行き場の無い怒りが私を襲う。
「……それで」
「…………?」
「理奈は、菜乃花に何をしてあげたの」
「……………」
「まさか、見て見ぬ振りなんてしないよね」
「私は……」
電話越しの沈黙は酷く重い。
理奈なら何か出来たはずだ、と行き場の無い怒りが理奈に向く。
怒りの矛先が理奈に流れて、ほんの少し頭が軽くなる。
気付いた時には、既に遅かった。
「……凛花……私は……」
「……ごめん」
今にも泣き出しそうな理奈の声が、
「八つ当たり……してしまったみたい……本当にごめん」
「……りんかあ」
胸に沁みて痛い。本当に最低だ。
「ごめんね凛花……。私、何も出来なかった。もっと早く気付いていればよかった……そうしたら何か出来たかもしれない……」
「クラス別だったんでしょ。仕方ないと思う。本当にごめん」
酷く後悔する。理奈を責める資格なんて私には無かった。
クラスが別だったにしても、同じだったとしても、リスクを試みず人助けをする人間なんていない。少なくとも私は、そんな人間を見たことが無い。
当時、菜乃花の隣に居れなかったことが悔しくて堪らない。無力な自分が嫌になる。
空を見上げる。目に入るのは、夜の町を照らす月明かり。
私にとって菜乃花は、月明かりのようなものだった。
道に迷っても、暗闇に身を投げ出しても、行く先を導いてくれる一筋の光。
目を閉じる。頭に浮かんでくるのは菜乃花の言葉。
交わした約束に縋りながら生きてきた。
交わした約束だけが私の全てだった。
「……理奈」
「なに……?」
「話してくれてありがとう」
交わした約束が菜乃花を傷つけるのだとしたら、私の答えは一つ。
目を閉じる。あの日の約束を、そっと胸の奥に閉じ込める。
決意と共に目を開ける。
滲んで見える月が、酷く遠い世界のものに見える。
町を照らし続ける月を見上げながら、私は理奈に言う。
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