焦燥
「事情を聞かせてくれるかな」
第一音楽室の準備室。微かに漂う珈琲の匂い。机の上に広がるのは幾つもの楽譜と、積まれたCD。
向かい合うように椅子に座る担任は、ずれた眼鏡を直そうと、両手で眼鏡の両端をくいっと持ち上げた。
「僕にはとても、白崎さんが誰かをいじめるようにはみえないけど」
握る手に力が籠もる。あの女教師が担任に何を吹き込んだのか、容易に想像できる。腹立たしくて仕方ない。
「……そんなことしません。菜乃花は私の大切な――」
言葉に詰まる。
「友達、です」
「ふむ」
「だからいじめたりなんて絶対しません。理奈だって菜乃花と仲良く話してました」
「それならどうして?」
「……」
答えられず視線が下がる。
頭から離れないのは、嘔吐く菜乃花の後ろ姿。床に落ちる生々しい音。
辛そうな菜乃花の後ろ姿は、まるで私を戒めるように離れてくれない。
あの頃の菜乃花は、楽しそうにピアノを弾いていた。
初めて会ったときもそう。一緒に音を奏でようと私の手を引き、部屋にある白いアップライトピアノで美しい音色を聴かせてくれた。
ピアノを弾いてる時の菜乃花は、まるで空を飛ぶ鳥のように輝いて見えて、何も無かった私はそんな菜乃花に憧れていた。
帰郷してすぐに母にねだり、アコースティックギターを買ってもらった。
それからは肌身離さずギターを弾き続けた。
いつかまた、菜乃花と音を奏でるために。
「音楽の話をしたんです。一緒にバンドをやろうって」
視線を上げる。担任と目が合う。
「それが原因だったように思います。何か……嫌なことを思い出させてしまったのかもしれません」
言葉にすると、酷く胸が痛かった。
まだ受け入れがたい事実。それでも、原因は音楽としか考えられない。
「そうですか。この話は通信制の先生にも伝えておきますね」
「はい」
それと、と思い出したように
「校内ではその子と、いや、皆にも言ってることだけれど、通信制の生徒とは極力話さないでもらえるかな」
「……」
「ほら、通信制の生徒は年齢の幅も広いし、何かトラブルがあってからじゃ遅いですからね。校内じゃなくても、携帯でやりとりはできますよね。そうしてもらえませんか」
諭すように言われても、それは受け入れがたい言葉だった。
「連絡先を知りません」
酷く残酷だと思った。近づいたと思ったら遠ざかっていく。まるで、私と菜乃花を離れ離れにしたいみたいに。環境や立場、そんなものに私と菜乃花の間を邪魔をする権利は無い。私達を阻む物が鬱陶しくて堪らない。
「わかった」
ひとりでに納得した担任の声に顔を上げる。
「連絡先を交換できたら、校内で話さないこと。それでいいですね?」
ぱっと胸の奥が晴れていくのを感じると同時に悔しくなる。
「わかりました」
「白崎さんなら弁えてくれると信じてます」
小さく綻ぶ目元。脳内に知り合いの顔が浮かぶ。
担任に非は無い。これは学校で決められた決まり。むしろ融通を利かせてくれたことに感謝するべき。そう自分に言い聞かせて、担任への怒りを静める。
「それでは、南さんを呼んできてもらえますか」
「理奈ですか?」
「一応、話を聞いておかないといけません」
「わかりました」
立ち上がり、準備室を出る。
五時限目の最中の校内は、静けさに包まれていた。
誰もいない廊下に足音だけが響き渡る。
菜乃花なら、二つ返事で答えてくれると思っていた。
約束を――待ち望んでいると信じていた。
全てが無意味に思えて、どうでもよくなる。
焦燥感が身体の奥底から沸いてくる。
私は彼に逢いたくなる。
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