それはまるで夢のように

 大まかに、第一校舎は全日制の生徒専用。第二校舎は全日制と通信制の生徒併用となっている。全日制の生徒は第二校舎への立ち入りを禁じられていないが、通信制の生徒は第一校舎に立ち入ることが出来ない。

第二校舎の中心、授業では使用しない空き教室を区切りに、通信制の生徒は立ち入りを禁じられている。私はそれを利用して、区切りの内側、第一校舎側の二階にある人気の無い教室に、菜乃花を案内した。そこなら、通信制の生徒にも全日制の生徒にも、声を掛けられる可能性は少ない。

 購買で購入したのは、メロンパンを二つと、苺ミルクの紙パックに缶コーヒー。

 幼い頃、菜乃花が苺ミルクをよく飲んでいたのを覚えている。

 はやる気持ちを抑えながらもいつの間にか早足に、菜乃花の待つ教室へ向かう。

「よかったね、会えて」

 そうね、と相槌を打ちはっとする。

「実は、昨日会ったの」

「え、菜乃花ちゃんと?」

「そう。大美湖で偶然」

 ついうっかりしていた。菜乃花のことは以前に何度か理奈に話したことがある。きちんと報告しておくべきだった。

「そっかそっか。無事に会えて良かったよー」

 理奈の満面の笑みに釣られるように、口元が緩む。

教室が見えてきた。第二校舎に入ってから今まで、生徒とすれ違うことは無かった。それでも胸がざわめくのは、心配のしすぎだろうか。もし、教室に菜乃花が居なかったらどうしよう。そんな不安がじわじわと押し寄せてくる。

 菜乃花の待つ教室に近づくに連れて、足が速くなる。教室に着く。ぽつんと窓際の後部座席に座る菜乃花の姿を見て、そっと胸を撫で下ろす。  

「お待たせ」

「菜乃花ちゃん、お待たせ」

 教室の出入り口から声を掛けると、菜乃花の身体がびくっと跳ねた。どうやら窓の外を眺めていたようだ。

「ごめんね、驚かせちゃったかな」

 理奈の言葉に、菜乃花が小さく首を横に振る。

 菜乃花の座る席に近づくと、理奈が何も言わずに隣の机を菜乃花の机に合わせる。私も同じように菜乃花の机に前の机を合わせた。菜乃花と向かい合うように席に座り、机の上に購入した物を置く。

「お腹ぺこぺこだよーもう」

 衣のしっかりしたメロンパンに、可愛いうさぎのキャラクターが描かれたロールケーキ。理奈が購入した物を机に広げる。

「これ、私の……?」

 菜乃花が戸惑うように言う。机の上に置かれた、メロンパンと苺ミルクの紙パックを交互に見て、私の顔色を窺う。

「うん。苺ミルク、好きだったでしょ。パンは食べれそう? 無理なら理奈にあげて」

「全然食べちゃうよ!」

 菜乃花は小さく首を横に振ると、

「ありがとう」

 白く小さな手で、苺ミルクの紙パックを大事に包んだ。

 理奈がメロンパンの袋を開けた。釣られるように私と菜乃花もメロンパンに手をつける。

 三人で昼食をとるなんて夢にも思わなかった。

 穏やかな風が吹く。揺れる菜乃花の髪。目の前に菜乃花がいることが、どこかまだ浮いている。まるで夢みたいに。

「菜乃花ちゃんの髪、めっちゃ綺麗」 

「……先週、美容院に行ってきたんです」

「めっちゃ綺麗な色してるー。私もそこ通おうかなあ」

「髪色は……地毛です」

「地毛なの!?」

 小さくなる菜乃花。

「昔から、綺麗な色してたよね」

「もう、凛花ちゃん」

「こんな綺麗な茶髪が地毛の人初めて見たかも……少し触っても良い?」

「ど、どうぞ」

 目を輝かせながら言う理奈。髪フェチなのだろうか。

 理奈が菜乃花の髪に触れる。ゆっくりと毛先の方へなぞると、ぱらぱらと髪が指から零れていく。理奈が髪を拾い上げ、再び毛先の方へなぞる。

「さらさらしてる……新感触」

 まるで美容系のCMのような台詞を呟く理奈。

「触りすぎ。菜乃花も困ってる」

「あはは、ごめんね」

「いえ、全然」

 ストローに口をつける菜乃花の頬は、微かに赤くなっている。

「理奈さんの髪も明るくて素敵です」

「えへへ、ありがと」

 照れくさそうに頭を触る理奈を見ていると視線を感じた。

 目が合う。菜乃花の口元が綻ぶ。

「凛花ちゃんも大人っぽくて素敵」

 ふにゃっとした菜乃花の笑顔。

 胸を射貫かれたように、鼓動が早くなる。

 誤魔化すように、メロンパンを口にする。さくさくした衣は甘く、生地はふんわりとしていて喉に溶けていく。小さくメロンパンを口に含む菜乃花を瞳が追う。

 長めの前髪から覗くのは大きな目。整った顔立ちに、ピンクのリップ。白い肌は透明感を含み、小さな身体からは儚さを感じる。

 あの頃に比べて、菜乃花の雰囲気はがらっと変わった。菜乃花も十分素敵だ。


 ふと頭に浮かんだのは、まるで夢のような光景。

 ギターボーカルの私。キーボードの菜乃花。ドラムの理奈。ベースの綾部さん。

 鳴り響くキーボードの音色。それを支えるのはドラムとベース。その音を彩るのは乾いたギターの音。そしてその先を紡ぐ、歌声。

 星の綺麗な野外ステージから、世界を彩る私達の音。

 幸せそうに音を奏でる、菜乃花の笑顔。


「ねえ、菜乃花」

 不思議そうに首を傾げる菜乃花。

 理奈の方に視線を向ける。理奈ならきっと察してくれる。そう思いながら見つめ合うと、理奈は困ったように視線を泳がせた。首を傾げる。伝わらなかったのだろうか。

 視線を戻す。不思議な表情で私を見る菜乃花に言う。

「一緒にバンドをやらない?」

 口にすると、それは突然、現実味を帯びた。

 やっと念願が叶う。胸の奥底から想いが溢れてくる。

 驚いたように固まる菜乃花に続ける。

「メンバーは私と理奈。それと理奈の友達と菜乃花の四人。私はギターが弾ける。曲も何曲か作ったことがある。理奈はドラムが叩ける。もう一人の子はベース。だから、菜乃花は――」

 言いかけた口が止まる――、

 目の前には青ざめた顔の菜乃花。

「……凛花」

 律するように理奈が私の名を呼ぶ。

 息が詰まる。理由は分からない。それでも明らかに菜乃花の様子はおかしい。

 唾を呑んだ。喉に何かが詰まったように、言葉がすんなりと出てこない。


「……キーボードをやってほしい」


 絞り出した言葉は、沈黙の中に消えていった。

「……凛花」

 理奈の呼び声を無視して、言葉を紡ぐ。

「約束、菜乃花は覚えてる? あれからギターを始めたの。菜乃花とまた一緒に音を奏でたくて――」

 咄嗟に菜乃花は口を押さえた。

 席を立ち、教室の隅で蹲る。

 小さく嘔吐く声が漏れる。

 びちゃ、と何かが床に落ちる。

 それは、まるで悪い夢を見ているように。

 理奈が慌てて菜乃花に駆け寄る。身体が膠着したように動かない。教室の隅で小さくなる菜乃花を、ただ見ていることしか出来なかった。

「……菜乃花?」

 歩み寄ろうとする私に、

「凛花!」

 理奈は菜乃花の背中を摩りながら、はっきりと告げる。

「先生、呼んできて」

 気迫に押され、ただ頷く。

 言われた通りに職員室へ向かおうと動き出すと、

「藤宮さん!?」

 背筋が凍る。廊下から、見慣れない女教師が声を荒げる。

「あなたたち、何しているの!」

 女教師は叱りつけるように言い放ち、菜乃花に駆け寄った。 

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