大美湖の畔にて

「……凜花ちゃん」

 その小さくてか細い声は、私の胸に深く浸透した。

 大美湖の畔。古びた東屋。かつての面影を残しながらも、どこか陰を感じる雰囲気。そんな気掛かりを呑み込むように、想いが溢れてくる。

 ずっと会いたかった。話したいことが沢山あった。

「こんなところで何してるの」

 そうして絞り出した言葉がそれだった。

 もう少し言葉を選べばよかった。後悔がじわじわと襲ってくる。

 私の問いかけに、菜乃花は視線を湖に向けた。

 ゆっくりと菜乃花に近づく。菜乃花の隣に並び、視線を湖に向ける。

「……てたの」

 今にも聞き逃してしまいそうな小さな声。

「なんて……?」

「湖……みてたの」

 酷く変わってしまった、と思った。

 最初に感じた違和感は確かで、太陽のように眩しかった菜乃花は、まるで抜け殻のようだった。虚ろな瞳は、ぼうっと湖を映している。

 下校の途中という訳ではないようだ。身に着けているのは制服では無く、淡いピンクのパーカーにスカート。春らしくて、菜乃花によく似合っている。

 辺りを見渡す。五年経っても変わらない景色。同じように私の気持ちも変わらない。五年経った今でも、菜乃花のことを大切に想っている。

 ゆっくりと息を吐く。そして、菜乃花の茶色い髪に触れた。

 驚いたように菜乃花が私を見る。あの頃とは違う、癖の無いストレートな髪。

 首を小さく傾げる菜乃花に、小さく微笑み返す。そして――、

「っ――」

 菜乃花の頬にキスをした。

 ゆっくりと顔を離す。こんなに勇気が必要だったのだと、あの頃の、赤面する菜乃花の姿が頭を過る。

 菜乃花は硬直していた。顔が赤くなっているのが一目で分かる。

「な、なにして――」

「また会えた」

 驚いたように私を見る菜乃花の瞳は、あの頃のように輝きを取り戻したように見えて、

「菜乃花の言った通り、また会えた。会えてよかった」

 切り揃えられた長い前髪が揺れる。ゆっくりと菜乃花の瞳が露わになる。

「……もう。凜花ちゃんは変わってないね」

「なにそれ、複雑」

「いい意味だよ。私もまた会えて嬉しい」

 ふにゃっとした菜乃花の笑顔。あの頃を思い出して嬉しくなる。

「まだこの辺に住んでるの?」

「うん。変わってないよ」

 以前見に行ったときは、誰かが住んでいるようには見えなかったのに。

「凛花ちゃんは、いつこっちに来たの?」

「中三の初めに、こっちに引っ越してきた。今はばっちゃと二人で住んでる」

「そうなんだ」

 菜乃花はどこか嬉しそうに言った。

 会話が途切れた。それなのに不思議と居心地の悪さを感じなかった。

 風で揺れる葉の音と、湖の青さを横目に、菜乃花に視線を向ける。

 幼い頃、同じくらいだった背丈は、今は私の方が10センチ、15センチ程高い。綺麗な茶色の髪は相変わらず。ただ、どこか暗く弱々しい雰囲気が気掛かりだ。

 咄嗟に思いつき、制服のポケットからスマートフォンを取り出す。

「連絡先教えて」

 きょとんとする菜乃花。

 何かを思い出したのか視線を下げると、菜乃花は困ったように微笑みながら言った。

「ごめんね。スマホ、家に置いてきちゃった」

「それなら」

 急いで通学用のスクールバックから、授業で使ったノートと筆記用具を取り出す。

 ノートの1ページを破り取り、シャーペンで電話番号とアプリのIDを書き込む。

「これ、私の電話番号。IDも書いておいたから、そっちも友達追加してほしい」

 紙を受け取った菜乃花は、ぽかんとしていた。

「どうして――」

「なに?」

 何かに気づいたように、菜乃花は小さく首を横に振る。

「ううん」

「連絡くれなかったら、家まで押しかけるから」

「もう、ちゃんとするよ。安心して」

「わかった。待ってる」

 話したいことが沢山あった。

 菜乃花と音を奏でるために、帰郷してすぐ、母にねだりギターを買って貰ったこと。

 好きな音楽のこと。作曲したオリジナル曲のこと。

 友人の理奈がバンドを組もうと熱心に行動していること。

 そこには、菜乃花。貴方が居て欲しいということ。

「そろそろ暗くなるね。帰ろっか」

 菜乃花がその場を去ろうと、動き出した。

「送ってく」

「大丈夫。すぐ近くだよ」

 諭すように言われて、ほんの少し恥ずかしくなる。柄にも無く舞い上がっているようだ。

 名残惜しさで足が重たい。それでも、この場に菜乃花を引き留めるのは気が引けた。

「また、明日」

「明日……?」

 不思議そうに首を傾げる菜乃花。

 そんな菜乃花に、当たり前のように私は言う。

「また明日。放課後、ここで待ってるから」

 沈黙が続いた。菜乃花は何かを考えているようだった。

「……うん」

「それじゃあ、またね」

 名残惜しさを噛み殺して、菜乃花に手を振る。

 菜乃花がゆっくりと歩き出した。

 小さな背中を見送る。太陽のように眩しいかつての面影は無く、今にも消えてしまいそうな弱々しい背中。

 遠ざかる背中が立ち止まる。そして、ゆっくりと振り向く。

「凜花ちゃん」

 聞き逃してしまいそうなほど、小さな声。

 目が合う。唇は微かに綻びながら、それでも瞳は真剣に私を見ている。

「ありがとう」

 五文字の言葉が、私の胸に深く浸透する。

 首を横に振って、菜乃花に答える。

 菜乃花は小さく微笑んで、再び背を向ける。

 遠ざかる小さな背中。その背中が見えなくなるまで、菜乃花を見送った。

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