五月、再開
再会
「昨日、話したように、明日から通信制のスクーリングが始まります。今一度身の回りを整理整頓し、決してスクーリングの生徒とトラブルの起こすことのないように。それから――」
早く帰って、新しいフレーズを試したい。
窓際の最後列。担任の言葉を聞き流し、机に頬杖を付きながら考えていたのはそんなこと。
開いた窓から風が吹き入れて髪が揺れる。窓から見えるのは閑静な住宅街と、緑豊かな大美湖。
大美湖を見る度に思い出す。小学五年生の春、湖の畔で交わした彼女との約束を。
ゆったりとした口調。パーマの掛かった黒髪に、黒縁眼鏡。担任の守先生の話を遮るように、放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。
「それでは、日直」と、担任の合図とともに、席を立ち挨拶を済ます。
部活動に向かう者。友人と他愛ない話をする者。部活動に所属していない私は、この後、特に予定もなく、いつものように下校の仕度を始めた。
「りーーーんか!」
突然、背中から全身に体重が掛かる。
茶色の長い髪が頬に掛かる。頭を過るのは、彼女のふわりとした茶色い髪。現実に引き戻されるように、友人の理奈の甘い香水の匂いが漂ってくる。
「何」
「ベース弾いてくれる人をね? 見つけたんだけどー……」
勢いとは裏腹に、控えめに、まるで顔色を窺うように理奈は言った。
私の意思に気づいたように、理奈は続ける。
「あ、ごめん。ちゃんとわかってる」
二年生に進級してから、理奈がずっと言っていること。
バンドを組み、八月の文化祭で演奏する。
その中には、何故か必然的に私が含まれていて、どうにも理奈は私の曲を文化祭で披露したいようだ。
「期待させるだけその子に迷惑だと思うけど」
「うん……」
しゅんと視線を下げる理奈。
バンドを組む気は無かった。文化祭で演奏し目立ちたいという欲は無いし、バンドを組むために見ず知らずの他人に時間を割く、そんなのはごめんだ。
横目で理奈に視線を向ける。彼女の表情に堪えきれず、
「で、ベースって誰」
理奈の視線が泳ぐ。気まずそうに理奈は続ける。
「……歩美。同じクラスの」
綾部歩美。彼女とは犬猿の仲だった。
黒髪のボブ。右耳の大量のピアス。そんなピアスを見せつけるように耳に掛けたサイドの髪。かなりの肉食系女子で、高校二年生になってまだ一ヶ月しか経っていないのに、既に二人の男子と付き合っているようだ。
不運にも進級すると彼女と同じクラスになってしまった。一年生の時から彼女は何かと私に突っかかってくる。特に気に障るようなことはしていないはずなのに迷惑な話だ。私は無視を決め込んでいた。相手にする気は微塵も無かった。
そんな彼女と理奈は幼馴染のようだ。同じクラスになって二人の様子を見る限り、私は納得する。クラスの中で、彼女とまともに会話をしようとする女子は理奈くらいだった。
そっと胸を撫で下ろしたのは、相手が綾部さんだったから。
彼女になら気を遣う必要は無い。そう思うと幾らか気が楽だった。
「前にも言ったと思うけど、今はバンドをする気は無い」
下校の準備を再開する。指定のスクールバックに筆記用具や課題を詰め込む。
「わ、分かってるよ。だからさ――」
茶化すわけでもなく、冗談でもなく、真剣な表情で理奈は続ける。
「その子、一緒に探さない?」
思いがけない言葉に、手が止まる。
幼い頃した約束。一緒に音楽をするという約束。
今でも覚えている自分を、正直、馬鹿みたいだと思うこともある。
そんな馬鹿げた話を、理奈にしまったことがある。
迂闊だと思った。まさか覚えているなんて微塵も思わなかった。真剣に向き合ってくる理奈が眩しく見える。
「……少し考えさせて」
「うん。わかったよ」
明るい茶髪にピアス、着崩した制服。遊んでいそうな容姿とは裏腹に、理奈はドラムが叩ける。中学生の時から始めたようで、何度か一緒にスタジオで音を合わせたこともある。
「ねえねえ。この後クレープは如何かしら?」
悪戯気で嬉しそうに笑みを浮かべる理奈。それが彼女なりの気遣いなのは、すぐに察した。
「ごめん、今日はパス」
「えーー。ご馳走するよ!?」
「いい。理奈、最近少し太ったんじゃない?」
「ううう……凛花の意地悪」
ぷくっと口を膨らませ、その場に座り込む理奈。
「今日は寄りたいところがあるから。また誘って」
私の言葉に、納得したように頷くと、
「そっか、残念。じゃあ、また今度行こうね!」
理奈はそう言って、快活とその場を後にした。
嵐が過ぎ去ったように、辺りが静かになる。
下校の支度を済ませ、席を立つ。高校指定のスクールバックを肩に掛け、教室を出る。
理奈は私にとってクラスで唯一の話し相手であり、唯一の友人だった。
友人が少ないことに、憂いはなかった。無理に合わせる必要もなく、厄介ごとに巻き込まれる必要もない。そう考えると幾分も楽だった。
教室を出るとすぐに、友人の輪の中で楽しそうに雑談する理奈と目が合った。理奈の友人達は追いかけているアイドルグループの話で盛り上がっていた。
ふと、理奈と目が合う。理奈は屈託のない笑顔で私に小さく手を振る。私は無言で頷いて、返事をする。
私は理奈の横を通り過ぎ、真っ直ぐ昇降口へと向かった。
不思議と歩きたい気分だった。
普段、乗り降りしているバス停を通り過ぎ、閑静な住宅街を歩く。
十分ほど歩いて住宅街を抜け、坂を下ると見えてくるのは大美湖。
大美湖の周囲は、『大美湖公園』として整備され、近隣の住民の憩いの場となっている。
デートスポットとしても、この街、『可美原』では名所だ。
湖沿いの年期の入った歩道。所々に設置された休憩スペース。湖と緑豊かな自然の間には、一台通るのがやっとの狭い車道がある。車道と言っても、昼間は自転車やランニングで走っている人が多く、車でこの車道を通る際は、人と自転車。そして反対車線からやってくる車と譲り合いながら走らないといけないから大変そうだ。
右方にある艇庫を横目に、大美湖公園に足を踏み入れる。一面に広がるのは緑豊かな自然と、静かに揺れる湖。
スクールバックからイヤフォンを取り出し、耳に挿す。スマートフォンを操作し、『After death』の曲を流す。
世界が、音楽で包まれる。乾いたギターの音。激しくて憂いを纏ったメロディーに、どこか寂しげに歌うボーカルの歌声。
『After death』四人組のガールズバンド。静岡出身で、高校生の頃から四人で活動を続けていた。音楽番組に出演することも多かったが、四年前にボーカルのReinaが自殺したことをきっかけにバンドは解散。一部のメンバーは音楽活動をしているが、リードギターのMikaはReinaの後を追うように首を吊り自殺した。
私がこのバンドを知ったのは、ボーカルのReinaが自殺する前日だった。
動画サイトで公式のMVを見つけたのがきっかけだ。
バンド名通り、どこか死を連想する彼女たちの音楽に、私は取り憑かれるように聴き入った。夢や希望とか、飾った言葉ではなく、自身の人生を、想いを、憂いを、絶望を、音楽にぶつける彼女達の曲は、とても魅力的で、凜花の中でロックバンドの常識が変わった瞬間だった。
翌日、Reinaが自殺をしたことを知ったとき、私は彼女の曲が遺言のような意味を秘めていることに気付いた。本物だと思った。これがアーティストなのだと、痛感した。
歩く。歩く。歩く。彼女達の音楽に浸かりながら、湖の畔をひたすらに歩いた。
彼女達の音楽に浸かると、どうしてもバンドに憧れを抱いてしまう。理奈からの誘いを断り続けている大きな理由は、あの日交わした約束。どうしても彼女との約束が胸に引っ掛かって、私は首を縦に振れなかった。
――菜乃花は、元気で過ごしているだろうか。
そもそも、まだこの街に住んでいるのだろうか。可美原に引っ越してきてすぐに、彼女の家の前まで行ったことがある。閉じた雨戸。生い茂る雑草。枯れた花壇の花。輝いていた思い出の場所は、もうそこには無かった。
しばらく歩くと、彼女の家へと繋がる、急な坂道が目に入る。
制服のポケットからスマートフォンを取り出し、指を動かす。
画面をスワイプし、『水眠死』をタップする。流れてくるのは、透明感に染まったしっとりとしたバラード。24thシングル『Euthanasia』のカップリング曲。この曲は『After death』の中では異質で、Reinaはギターを弾かずボーカルに徹し、リードギターのMikaはピアノを弾いている。Reinaがギターを弾かず、Mikaがピアノを弾く曲は唯一この曲だけで、ファンの間では様々な憶測が飛び交っている。ReinaとMikaが自殺したのは、このシングルの発売から丁度一年が経った、27歳の時だ。
この曲は私にとって特別な物だった。
綺麗なピアノの音色に、どこか救いを求めているような歌声。この曲を聴く度に思い出す。菜乃花と音を奏でたあの日々を。
胸がきゅっと切なくなる。寂しさが込み上げてくる。
歩く。歩く。歩く。彼女達の音楽に浸かりながら、寂しさを掻き消すように、足を進めた。
坂道を通り過ぎる。頭に過るのはあの頃の幻。
――嘘つき。
菜乃花の嘘つき。
一人だけ追いかけて馬鹿みたいだと思った。それでも、諦めきれない自分がいた。
強い風が吹いて、スカートが揺れる。咄嗟にスカートを抑える。風が治まったのを確認してスカートから手を離すと、目の前の光景に足を止めた。
緑の葉を咲かせた、大きな桜の木。年季の入った東屋。そこから湖を眺める一人の少女。
淡いピンクのパーカー。綺麗な茶色の、ストレートで長い髪。
あの頃とは微かに違う容姿。それでもあの頃の面影を確かに感じる。
辺りを見渡し、気付く。そこは、最後に彼女と約束をした場所だった。
恐る恐るイヤフォンを外した。視線に気づいたのか、ゆっくりと少女が振り向く。
目が合う。思わず息を呑んだ。彼女もまた、驚いたように目を見開いた。
「――菜乃花」
風が吹いた。高校二年生の春。私達は、五年振りの再会を果たした。
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