四つ葉の約束

宇月零

プロローグ

約束



 初めてのキスの感触を、今でも覚えている。


 彼女と出会ったのは、小学五年生の夏。

 酒癖の悪い父と気弱な母。夜な夜な聞こえてくる父の怒鳴り声と、母の泣き声。家庭環境は最悪で、精神的に耐えきれなくなった母は、私を可美原市の実家に連れ帰った。

 母と私を待っていたのは、穏やかで優しい祖母と、父に脅えることのない日々。可美原市での日々は平穏で、毎日のように暗い顔をしていた母も、次第に明るさを取り戻していた。

 学校が夏休みに差し掛かる頃、母は私を連れて、旧知の友人の家へ向かった。

 そこで出会ったのが、菜乃花だった。

 第一印象は向日葵。綺麗な茶色の髪。太陽のように眩しい笑顔。初対面なのに、臆することなく親し気に話しかけてくる菜乃花を前に、私はすぐに心を開いた。

 菜乃花は私を自身の部屋に案内した。沢山の人形と可愛らしい家具。そして、眩しいほどに存在感を放つ、白いアップライトピアノ。

 菜乃花はピアノを弾くのが上手だった。幼い頃から母の影響で音楽教室に通っていて、コンクールで幾つか賞も取っていた。

 私は食い入るように菜乃花の演奏に耳を傾けた。そんな私に、菜乃花は歌ってほしいと言った。歌を歌うのは好きだった。音楽は、退屈な学校での唯一好きな授業だった。

 私は歌った。菜乃花の演奏に合わせて歌う歌は不思議と心地良くて。誰かに歌ってもらうのは初めてだと、嬉しそうに顔を綻ばせる菜乃花の笑顔は太陽のように眩しかった。

 それから私は、何度も一人で菜乃花の家へ遊びに行った。

 私達はひたすらに音を奏でた。流行りの歌から、音楽の教科書に載っている歌。菜乃花は私の歌を褒めた。そんなに綺麗に歌えないと、これ以上にない嬉しい言葉を私にくれた。

 菜乃花と音を奏でる日々。それは私にとって、数少ない楽しみの一つだった。



               ※※※



 翌年の春。緑豊かな大美湖は、沢山の桜が散り際を迎え、その綺麗な花で地面を鮮やかに染めていた。

 舞い散る桜の花に目もくれず、湖の畔にある東屋で、私たちは見つめ合っていた。

「また、会えるから。だから大丈夫だよ、凜花ちゃん」

 菜乃花が困ったような笑顔で言った。

 突如告げられた帰郷。納得できず飛び出した祖母の家。

 私は言葉を失っていた。菜乃花から手渡しされた四つ葉のクローバー。頬に残る柔らかい感触。そう、ほんの数秒前の出来事が、どこか永遠に、刹那に感じて、私の思考はまるでどこかに追いやられたかのように、止まっていた。

 桜が散った。二人の間を散る桜の花のように、菜乃花が頬を染めていることに私は気付いた。

「また――」

「会えるよね」と、言いかけた言葉を呑み込む。

 菜乃花が、不思議そうに首を傾げる。

「また、一緒に……歌いたい」

 不確かな物ではなく、確かな物が欲しい。そうして出てきた言葉がそれだった。

 私の言葉に菜乃花は優しく微笑んだ。くるりと白いワンピースを揺らして、私に背を向ける。背筋を伸ばして大きく息を吸い込み、そして、ゆっくりと振り向く。

「また、私のピアノで歌ってくれる?」

 太陽のように温かい、ふにゃっとした笑顔。

 霧で閉ざされた道が晴れるように、ぱっと胸の奥が明るくなる。

「うん。歌う。絶対」

「じゃあ、約束」

「やくそく?」

「大人になったらまた会うの。それで一緒に音を奏でるの」

「……大人っていつ?」

 私の問いに、菜乃花は困ったように考え込んだ。

「うーん……高校生? うん。高校生になったら、また会うの。それで一緒に音を奏でるの。約束してくれる?」

 ゆっくりと目を閉じた。そして、菜乃花が口にした約束を忘れないように、何度も心の中で繰り返し、胸の奥に刻み付けた。

「うん、約束。絶対忘れない」

 ゆっくりと顔を上げた。真剣な表情で菜乃花は頷く。

「私も忘れない」

 桜が散った。家を飛び出す前に抱えていた悲しさは、菜乃花とした約束ですっかり消えていた。

「そろそろ帰ろう? 凜花のお母さん心配してるよ」

「……うん」

 どちらからともなく繋いだ手。左手で大切に握った四つ葉のクローバー。頬に残ったキスの感触を鮮明に残したまま、私は歩き出した。

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