02_間

◇◇◇



 サラマンダー種について、私が知っていることはとても少ない。

 人々が地下へ逃げ込んだのとは反対に、彼らは天上へ逃げたと言われている。もしかしたら他にも地上で生き延びてた種族がいるのかも知れないけど、孤児院や図書館ではサラマンダー種の存在しか判らなかった。


 彼らは空を飛ぶ。


 ということらしいけど、見たところ背中に羽が生えているわけではなさそうだ。肌を覆う赤い鱗や長い尻尾があったりするのはいかにも別種族って感じだけれど、顔は人間に近いし、髪も生えている。見た目はたぶん、二十代から三十代くらい……?


「あの、えっと――こんにちは!」


 パパの教え、その一。

 ほとんどなにも考えずに口から出した言葉に、サラマンダーの人は意外そうな顔をして眉を上げた。


「おう、こんにちは。お嬢ちゃんはここの住人だよな?」


 何処となく遠慮がちに、彼は言う。

 そこに気遣いのようなものを感じて、私はちょっとだけ安心する。だって、この人は私を怖がらせないようにしたのだ。どうしてかは判らないけど、いきなり襲いかかってと人間を食べたりするわけじゃないのは伝わった。

 私は一歩だけ彼に近づき、ゆっくりと頷いてみせる。


「ええ、そうよ。私はチェルシア。あなたは……サラマンダー?」


「へえ? 俺たちのことは知ってるのか。そう、サラマンダー種だ。名前はローグ」


 にやりと笑んでサラマンダーの彼――ローグさんはフライトジャケットの内側から煙草を取り出し、口に咥えて火をつけた。

 地下都市ではまず見ることのない紫煙が立ち上り、岩の墓場に紛れて消えていく。


「ローグさん……ローグさんは、何処から来たんですか?」


 自分で発した問いなのに、これは疑問じゃないなと思った。

 期待している答えが返って来るかどうかの、確認だ。

 はたして赤い鱗のローグさんは、紫煙を燻らせながら笑みを見せ、左手の人差し指を天へ突き出して、言った。


「決まってるだろ。『空の上』から、さ」


 ああ――また世界が広がった。

 胸の中で、写真立てのパパが微笑んでいる。



◇◇◇



 外の世界についても、やっぱり知っていることはあまりに少ない。

 私たちが地下に逃げ込んだのは、大気汚染と温暖化が原因だと聞いている。パパもそう言っていたし、孤児院でもそう教えられた。図書館の本にもそう書いてあった。だから私たちは蒸気と歯車を抱えて、どちらも届かない地の底を目指したのだ。


 でも、本当は?

 地下に逃げ込んでから長い年月を経た私たちには、それを知る術がない。

 いや――、のだ。


「そんな昔のことなんざ俺も知らんけどな」


 ローグさんは投げやりに笑って言う。


「だが、地上の大気汚染と温暖化はマジだ。俺たちみたいなサラマンダー種でも長くはいられない。すげぇ粉塵も舞ってて、こいつがなきゃ目も開けてらんねぇよ」


 頭の上のゴーグルを撫で、微妙な角度で眉を持ち上げる。地下の住人が絶対にしない感じの表情だった。


「じゃあ、外の世界に人間はいないんですか?」


「いや、判らんな。外の世界を隅から隅まで探し尽くしたわけじゃない。この地下都市だって、見つけたのはつい三日前だ」


「だったら、もしかしたら……」


「別の地下都市があったりするかも知れんし、地上でどうにか生きてる連中がいるのかも知れん」


 かも知れない、かも知れない、かも知れない――。

 確定していないのは、救いだ。

 知ることができれば、また世界が広がるから。


「ねえ、ねえ、ローグさん。私、もっと話が聞きたいわ」


 気づけば一歩や二歩どころではなく、ほとんど至近距離までローグさんに近づいて、彼の顔を覗き込むようにしていた。

 ローグさんはやや迷惑そうに顔をしかめたけれど、強く拒否はしなかった。

 そこで私はパパの教えを思い出す。


 その三――もらってばかりの関係は、不健全。


 ふと思いつき、私は私のバスケットから今日の昼ごはんを取り出した。見たところローグさんに荷物らしい荷物は見当たらず――他の場所に置いてあるだけかも知れないが――食料は貴重品かも知れないと考えたのだ。

 というより、私が差し出せるものなんてそれくらいしかない。


「これ、お弁当なんですけど、ローグさん……食べますか?」


 にっこりと笑んで見せる。

 なんとなく、こういうときはこういうふうにした方がいいのかなと思っただけなのだけど、ローグさんの反応は予想よりも大きかった。

 まずはぎょっと目を剥き、それから私とお弁当を交互に眺め、次に猜疑心を表に出してから、深呼吸。


「ふぅ……お嬢ちゃん、そいつはなかなかクールな提案だな」


 少し迷ってから、ローグさんはどうにかカッコよさげに口元を持ち上げ、カッコよさげな科白せりふを吐き出した。

 ちょっとかわいいな、って思ったのは、ここだけの話。



◇◇◇



 そうして私はローグさんとの密会を繰り返すことになった。


 私は外の世界について訊きたかったし、ローグさんは貴重な食料の消費を抑えたかった。聞くところによると本当に食事を切り詰める必要があったらしく、差し出した配給のお弁当はとても感謝されたのだ。


 朝起きて、シャワーを浴びて、着替えて外に出て、配給をもらって、地下都市の端まで歩いて、岩たちの墓場でローグさんに会う。


 赤い鱗のサラマンダーはいろんなことを教えてくれた。例えばこれまで彼が巡った場所のこと。砂漠の真ん中にあったシェルターや、高原に作られた甲殻都市。それらの場所は大半が廃墟と化しており、つまるところ地上で生き残っている人なんてろくにいなさそうという話だった。

 もちろん、生き残るのが難しそうだから私たちは地下へ逃げたのだ。


「ねえ、ローグさん。サラマンダーが生き残ってるなら、他の種族も生き残っていたりしないのかな?」


「さぁな。例えばウンディーネとかなら海中に都市を作っててもおかしくないかも知れないが……さすがに、海の底を確認する手段がねぇよ」


「ウンディーネって、水の中で暮らす獣人なのね。初めて知ったわ。それじゃあ、他にいるかも知れない種族は?」


「ほとんどの獣人は地上で死んじまっただろうからな。シルフなんかも大気汚染が致命的だろうし、ここみたいな地下都市を建造できるのは人間くらいだ。あんま、期待はできねぇよな」


 へっ、と皮肉げに息を吐く。

 どんな感情の吐露なのかは、判らなかった。


 また、ローグさんは私の話も聞きたがった。

 地下都市に生まれ、物心つく前に母と死別し、パパに育てられ、物心がついた頃にパパが死んでしまった。いくつかの教えと、一枚きりの写真。その後は孤児院で育ち、今は都市が管理する集合住宅に――都市が管理してない場所なんかないけれど――住んでいる。もう何年か経てば職業訓練を受け、なにかの職に就くだろう。


「チェルシアは、なにになりたいんだ?」


 残りの煙草の本数を気にしながら、ローグさんは問う。

 けれども未来のことなんて聞かれても、答えの持ち合わせがない。


「どんな、なにに、なれるんでしょうか……?」


 ぽつりと疑問を浮かべてみるも、赤い鱗のサラマンダーは紫煙と一緒にそれを吹き飛ばしてしまう。


「知るわけねーだろ。なりたいものも、現実問題としてなれるものも、俺は知らないんだからな。でも、でっかい声で挨拶できりゃ、何処でだってやっていけるさ」


 なるほど、パパの教えはやっぱり偉大だなぁ――とはならなかった。

 そのあたりに関しては、私の世界は狭いままなのである。



◇◇◇



 その日も私はいつも通りの朝を過ごし、配給を受け取るために家を出た。

 いつもと違ったのは、孤児院の先輩とばったり出くわしたことだ。


「やあ、チェルシア」


 私より五つ年上の、男の先輩だ。

 清潔感のかたまりみたいな人で、孤児院のときからあらゆる面で見本のようなところがあった。脱いだシャツをその場に散らかしたりするようなことを生涯しないだろう、みたいな。そういう人。


「ティリー先輩、お久しぶりです!」


 挨拶は元気よく。

 そんな私にティリー先輩はお手本みたいな笑顔を浮かべて頷いた。それがどんな意味の微笑なのかは、以前も今も判らない。


「久しぶりだね。最近は散歩に夢中だって聞いたけど、そんなに楽しいのかい?」


 他意のない疑問符なのに、私の中のなにかが反応した。

 ローグさんのことは余人にバレない方がいい――理由は咄嗟に言語化できないけれど、とにかくそう思ったのだ。

 いや、もっと前からそう思っていたのかも知れない。


 だからこそ私は赤い鱗のサラマンダーのことを誰にも言っていなかった。あの素敵な時間を誰にも教えたくなかった、というだけではなくて。


「散歩って楽しいですよ。生まれ育った町なのに知らないことがいっぱいです」


「へぇ。なるほどね。僕も今度試してみようかな」


 やっぱり同じ笑みを浮かべるティリー先輩。

 どう返そうかと考えたものの、私がなにかを言う前に「それじゃあ僕は行くよ、元気でね」と先輩は片手を上げ、去って行った。


 本当にたまたま顔見知りに会って、ちょっと挨拶をしただけ。

 そんな感じだった。

 そのはずだ。


 それなのに、どうしてか胸がざわついていた。



◇◇◇



 胸騒ぎのせいだろうか。

 町を歩いて聞こえる排気音や、何処かの建物から響く歯車の音が、なんだか他人行儀な気がしてきた。都市を照らす『空』の明かりでさえも。


 背中に感じる生まれ育った『私の世界』が、今日はなんだか違うモノのような。そんな覚束なさを感じながら、町を外れて岩たちの墓場に辿り着く。


 早くローグさんに逢いたい。


 急ぎ足で岩たちの隙間を縫い、いつもの場所へ。サラマンダーの彼が座り込んでいる場所を「いつもの」と感じてしまう。ローグさんと話しているのが楽しかった。そんな簡単なことに気がつく。そんなの最初から判っていたはずなのに。


 息を切らせている自分にも気づいたところで、赤い鱗が見えた。


「ローグさん――!」


 我知らず駆け寄り、半ば抱きつくみたいにローグさんの懐に飛び込んでしまう。自分でも理由が説明できない。驚いた彼がそれでも私を受け止めてくれたことに、サラマンダーの硬い鱗に手が触れたことに、ひどく安心してしまう理由も。


「おいおい、どうしたんだ?」


 困惑を浮かべながら私の肩を掴む。さすがにここまで近づいたのは初めてで、彼の瞳が猫や蛇のそれと同じだということにも初めて気づいた。動向が縦に細長く割れているのだ。サラマンダー種の特徴なのだろう。


 今日は初めてのことばかり。


「えっと……どうしたのかっていうと、どうもしない……の、ですけど……」


 ああ、そういえば配給を受け取ってくるのを忘れていた。ローグさんと話をするのに、ちゃんと約束をしていたのに。


「その――ごめんなさい、今日はご飯を持って来てなくて……でも、ローグさんに逢いたいって思って……」


「そんなことはいい」


 きっぱりと。

 糸の塊がほどけて風に揺らいでいたのをまとめて掴んでぴんと引っ張るみたいに、ローグさんは私のナニカを捕まえて、ひとつにしてくれた。


「どうした? なにがあった――ああ、いや、どうもしないのか? だがな、どうもしてませんって顔じゃないぜ」


 肩を掴んでいるローグさんの手。心配そうに私を見つめているローグさんの目。いつもの軽い口調に聞こえるのに、はっきりと気遣いを感じられる声音。


 久しぶりに呼吸を思い出す。

 息を吸って、吐く。

 少し煙草臭かった。

 そのことが、嬉しかった。


「……私、外の世界の話を聞いてて、すごく楽しかったの」


 なんでそんなことを言い出したのか、自分でもよく判らない。たぶん、私は私自身の内側にあるぐちゃぐちゃしたナニカを口から吐き出して整理したかったのだ。パパはそんなやり方を教えてくれなかったけど、でも、そうするべきだと思った。


「知らないこと、知らない場所、知らない世界――ローグさんに会ってから、私の世界が広がって、広がって……でも、外の世界に連れて行って欲しいなんて、思わなかった。本当に思わなかったのよ。考えもしなかった」


 だって、私はで生まれ育ったのだ。

 ママのことは覚えてもいない。パパはもう写真立てと思い出の中にしかいない。それでも、孤児院で育って、いろんな人がいて……。


 蒸気と歯車の地下都市。

 朝になれば響き渡る排気音と共に天井の照明たちが灯されて。

 夜になれば歯車たちの一部が眠りにつき、明かりが消える。


 いつもみたいにシャワーを浴びて、服を着て、パパの形見の銃をホルスターに収めて、配給を受け取って、知っているようで知らない世界を広げていく。

 思ったよりも狭い、この世界を。


 ああ――けれども、きっと、そうじゃなかった。


「ねえ、ローグさん。?」


 私を見つめるサラマンダーの瞳を、私は正面から見返して問う。

 次の瞬間、ローグさんの視線が動いた。逸したのではない。事態に対応するため、私の背後を注視する必要があったから。


 首だけ振り返って、私もそこを見る。

 いつの間にか――彼がいた。


「やあ、チェルシア。こんなところに来てはいけないよ」


 ティリー先輩だった。

 お手本みたいな笑顔で、彼は私を見ていた。



◇◇◇



 サラマンダー種であるローグさんを前にしても、ティリー先輩はお手本のような笑みを崩さない。

 そのままの笑顔で、こちらへ歩いてくる。


「さあ、家に帰ろう。彼が誰かは知らないけれど、君はこんなところにいてはいけないよ。戻るんだ、チェルシア」


 歩調には緊迫感もなにもない。

 さっき出くわしたときと、全く同じ顔。


 ぞっとした。


 目の前に本物のサラマンダーがいて、どうしてそんなふうにしていられるのか。世界の広がりも、私とローグさんがどんな時間を積み重ねていたのかも、私にどんな変化があったのかも――一切、気にしていない。


「近づかないで!」


 ほとんど反射的にガンベルトから銃を抜いて先輩へ銃口を向けた。

 自分でも笑ってしまいそうになるくらい、手が震えている。


 パパの形見の銃を、私はいつだって身に着けていた。だけど引き金に指をかけることすら、たぶん初めてだ。


「どうしたんだい、チェルシア?」


 まるで怯む様子もなく、ティリー先輩は歩いてくる。

 その様子にむしろ私の方が震え上がってしまう。


「さあ、帰ろう。こんなところにいてはいけないよ。こんなところに来ては危ないからね。チェルシア。戻るんだ。彼がいけないのかな」


「近づかないでください! ティリー先輩!」


「さあ、チェルシア――」


 一歩、さらに一歩、すぐに次の一歩。

 乱れない歩調で近づいてくるたび、身体が引き攣る。心が怯える。指先が震える。すぐ後ろにいるローグさんはどんな顔をしているのだろう。気にはなっても、振り返る勇気が出ない。ティリー先輩から視線を外せなくて。


 一歩。

 近づいて、手を伸ばされて。


 引き金を――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る