空の下、空の上
モモンガ・アイリス
01_下
◇◇◇
地下世界に甲高い音が響き渡る。
絵本に出てくる怪鳥が鳴いているみたいな、畏怖を含んだ大きな音。
それを合図に、朝が訪れる。
蒸気の排気と共に、地下都市の『空』に
カーテンの切れ間から漏れる朝の光。
ベッドから降りて寝間着を脱ぎ散らかし、シャワールームで水滴を浴び、乾燥室に入る。スイッチを押すと歯車がカチカチと回り、体温よりも少し高めの風が全身の水気を吹き飛ばしていく。
気持ち良いんだけど、髪がくしゃくしゃになっちゃうのが玉に瑕。
乾燥室を出て、髪をブラシでざっと梳かし、いつもの服を身につける。
愛想も可愛げもない無地の下着、似たような印象のシャツ、その上にお気に入りのレザードレス。特殊な合皮で作られているので、硬すぎないけれどすごく丈夫。
あとはいつものガンベルトを腰に巻いて、形見の銃をホルスターに収めれば、ほら、いつもの私の完成。
『おはよう、チェルシア』
棚の上、写真立ての中からパパが私に微笑みかける。
もちろん声は私の薄い胸にしか響かない。
でも、私はにっこり笑って答えるのだ。
「――おはよう、パパ!」
もうずっと前にいなくなったパパは、いろんなことを教えてくれた。
パパの教え、その一。
挨拶は元気よく。
◇◇◇
いつもの朝をこなした私は、バスケットを提げて集合住宅を出る。
地下都市は構造的に暗がりが生まれやすい。建物同士の距離が近いと、どうしても『空』の明かりだけでは照らしきれないから。
でも私にとっては慣れたものだ。
この地下都市は生まれ故郷であり、世界そのもの。
外の世界は大気汚染と温暖化が進んでいて、私たちは地面の下に逃げ込むしかなかった――と、聞かされている。パパがいなくなるよりも、ずっと前の話だ。
細い路地を進み、やや大きめの通りに出ると『空』の明かりが真っ直ぐに振り注ぐ。その落差に今更なにを感じることもなく、私はすいすいと通りを進む。
ほどなく配給所に到着。いつものおじさんがカウンターの奥に座っているのが見えた。まるで止まっているみたいな無表情も、見慣れたもの。
「おはよう、おじさん!」
私はにっこり笑ってパパの教えを守る。おじさんは私に気がつくと、全くの無表情から一変、眉を上げて口元を笑みの形に曲げた。
ずっと前から繰り返している、いつものやり取り。
「やあ、おはようチェルシア。今日もお出かけかい?」
「ええ。まだ私の歳だと仕事につけないもの」
それに、昔みたいに――というのは、人々が地下へ逃げるよりはるか以前ということだけど――子供がなにかの手伝いをする、みたいなこともほとんどないのだ。おおよその物事は蒸気と歯車で自動化されており、仕事はそれらの機械を操作する専門職になっている。
パパがいなくなって孤児院で育った私ですら、不自由というものをほとんど感じずに育ったのだ。
「そうかい。気をつけるんだよ」
言って、配給のおじさんは梱包された昼食と飲み物をカウンターに置いてくれる。それをバスケットに詰め、私は元気よく礼を言って配給所を出る。
ここ最近の私の流行は、世界の果てまで歩くこと。
いなくなってしまったパパは、いろんなことを教えてくれれた。『挨拶は元気よく』もそう。あるいは『やってしまったことで悩みすぎない』なんかは教えの四だったりするし、教えの八は『見上げすぎていると足元が見えない、足元ばかり見ていると、大事なものが見えない』だったりする。
そういうわけで、私はお昼ごはんを詰め込んだバスケットを抱え、地下都市の端までテクテクと歩くのだ。
パパの教え、その二。
――『世界は思っているよりは狭いけど、知っているよりは広い』。
私はこの教えが大好きだ。
だって、もしそれが本当だったら、知れば知るほど世界が広がることになる。まだ子供の私には、知らないことがいっぱい。
つまり、世界は広がる余地をたくさん残している。
無数の照明で昼と夜を区切らなきゃいけない場所で、世界が広がっていく。
それって、とっても素敵じゃない?
地下都市を歩き続けると、そのうちに町並みが途切れてしまう。開発が途中で打ち切られたせいで、未開発の果てが生まれたのだ。
ここまで来ると『空』の照明も少なくなり、道の舗装も終わってしまう。都市部では常に何処からか響いている排気音も聞こえない。
在るのは、無数の岩。
たぶん地下を掘っている途中で地下都市の拡張を放棄したのだろう。細かな土砂やなんかはさすがに撤去されているし、天井が崩れないように補強もされているけれど、そこはもう岩場と言った方が正しいだろう。
岩場を慎重に歩いていくと、次第に乱雑さが失せていく。ごろごろと転がっていた岩が、切り出されたブロックとして並び、積み重ねられ、なんだか見知らぬ宗教の施設みたいな感じすら漂ってくる。なにかの墓場とか、あるいは霊安室みたいな……どちらも実際に見たことなんかないけれど、そんな静けさがある。
積み重ねられた岩のブロックたちを指先でなぞったりしながら、私はそんな岩たちの墓場を鼻歌交じりで歩き続けた。
こうして世界が広がっていく――のかな?
◇◇◇
鼻歌交じりに歩いていたつもりが、いつからか普通に歌いながら歩いていた。気分が盛り上がったというより、なんか歌っちゃった、みたいな方が近い気がする。
気づけばずいぶんと奥まで歩いていたらしい。
ここ、何処だっけ? なんて思うけど、ここが何処だか判ってる人なんているんだろうか? なんてよく判らない疑問も出てくる。
地上の毒から逃げ出して、地下に潜って、切り出された岩たちの霊安室を漂っている。パパの教えの中に良いのがないかなって思ったけれど、ぱっと思いつかない。
そうして――見つけた。
迷路の先、岩と岩の間に、誰かがいた。
ナニカがいた、と言うべきだろうか。
赤い人。
それが最初の印象。
赤いのは服だろうかと思ったけれど、着ているのは私や地下住人のそれと似たような、合皮のものだ。色合いは暗く、昔の世界でいうところの飛行機乗りみたいな感じ。頭に乗せているゴーグルも、その印象を強めている。
じゃあ、赤いのは?
肌。
というよりも――鱗。
「なんだ、人間がいるじゃねぇか」
ため息交じりの
彼はサラマンダーだった。
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