第28話 目覚めは解放とともに

 ふわりとした優しい香りで目を覚ました。

 眠たい瞼を開けると眼前に黒い物体がある。何だコレ気持ち悪。毛が生えてるぞ。

 次第に脳が覚醒してくると、昨日何があったのか思い出す。そうだ、春乃に腕枕をして寝ていたんだった。とんでもなく失礼なこと言いそうになったが口に出さなかったからセーフだセーフ。

 いい匂いがする。同じシャンプーを使ったのに違う匂いなのはなんとも不思議だ。春乃の匂いってやつなんだろうか。汗の匂いとか言っちゃいけない。


 というか、腕が痛い。腕枕ってこんなに大変だったのか。

 それとも鍛え足りないのか。そりゃ、鍛えてはないけど、俺だった高校生二年生だ。それなりに筋肉はあるはず。でもムキムキだとさ、ほら。腕枕したときにゴツゴツだからこのくらいにしてあるんだ。うん。

 誰にともなく言い訳をしつつ、どうやって起きようかと悩む。

 目覚まし時計を確認するとまだ五時だ。起きるには早い時間だし、学校を行くにしてもまだ寝かせておいてあげたい。腕枕されたままだと起き上がれないし、このまま耐えるしかないかな。


 そんなことを考えながら、春乃の顔にかかった髪をそっとかき分けた。

 俺の顔をしているんだから見たくてわざわざやったんじゃない。何となくだ。


 そこにあったのは俺の顔じゃなかった。

 すっと通った長い鼻筋、長いまつ毛。可愛らしい彼女の顔だった。


 震える手で頬に触れる。ああ、そうだ。この顔を見たかった。

 どうして今治ったのだろう。また一瞬だけなのか。だったら目に焼き付けておかないといけない。この瞬間を。


「ん……」


 顔にベタベタ触れたせいか春乃が寝がえりを打ってしまった。「ああ……」と情けない声が漏れてしまう。

 ていうか腕枕で寝がえりされると痛い痛い痛い!

 ちょ、駄目だってコレ。筋肉がゴリって言った今。ゴリってるから!


「は、春乃起きて。痛い、それ痛いから」

「……んへへ」


 あら可愛い。いい夢見なのかしら。じゃ、ねぇんだよ。痛いんだって! 

 仕方なく右手で春乃の頭を持ち上げる。慎重に、身長にだ。髪を引っ張らないように注意しつつ、腕の位置を調整した。

 ふう、危ない危ない。腕を痛めるところだった。

 俺が一息つくとぱちりと春乃が瞼を開ける。そして何度かまばたきをするとにんまりと笑った。


「なぁにしようとしてたのかなー」


 ……何言ってんだこいつは。

 ん、ああそうか。今は後ろから抱いてる形になってるのか。頭を動かした腕はちょうど胸辺りの位置で止まってるし、顔も近い。

 ちょ、いや。違う違う違う。


「ち、違うぞ春乃」

「ふふ。いけないんだー。昨日はあんなにやらないって言ってたのに。我慢してただけなんだね。それに朝からなんて」

「違うんだって。腕枕の位置が悪かったから、ちょっと動かそうとね」

「えっちなんだら。もー」


 パジャマを脱ぎ出そうとする手を慌てて止める。

 おいやめろ襲われたいのか!?

 ああ、いや襲われたいんだったな。じゃあいいか。

 いやいやいや、よくないよくない。

 落ち着け。春乃の顔に戻っているせいでドキドキが止まらない。こんなの理性が持つはずがないじゃないか。本来の顔のままだったら、お泊りなんて誘えてない。そもそも春乃を迎えにいったときもあんな冷静じゃいられなかった。

 畜生。くそったれな病気が今だけは戻って欲しいと思えるなんて。


「わ、わかっただろ。抱きたくないわけじゃない。大事だから抱きたくないんだ」

「もう。いくじなし」


 頑張ってる人に言っちゃだめだぜ、それ。

 ていうか春乃さ。

 遊園地のときとかウブな感じだったのに、どうしてそんなにませてるの? この短い期間に何があった。心配だよ俺。


 ……ん、いや待てよ。


「春乃さ、しようしようって言ってるけどさ。誰かに教えられたりした?」

「へ!? い、いや。別に誰にも言われてないよ!?」

「ふーん」


 種がわかった。誰か何か吹き込んだな?

 春乃はそっち方面に疎かった。それがいきなり誘ってくるなんておかしいとは思っていたんだ。目的から察するに上江が一番怪しい。上江の協力者として美香。最悪なのは母親に何か言われたりした場合なんだけど、この場合のことを考えるとこれ以上聞けないな。


 まあ、誰が仕組んだかなんてどうだっていい。正しい知識に戻せばいいだけだ。

 俺もそっち方面疎いんだけどさ。


「春乃。確かに男はそういうの好きだよ? でもそれだけで交際とかしてるわけじゃないから」


 中にはそういう関係のお友達が存在するらしいが教えない。

 爛れた知識を付けるのは早すぎる。何なら一生知らなくていい。


「そ、それはそうだと思うけど、男の人ってそういうのが欲しいんでしょ?」

「否定はしないけどさ。俺は春乃といたいから一緒にいるんだって」

「で、でも体のつながりがないと離れていっちゃうって……」


 なるほどね。それでか。

 馬鹿だな。俺が春乃から離れていくことなんてありえないのに。


「だからって容易に誘わないでくれ。その気になっちゃうだろ」

「いいって言ってるじゃん」

「そうはいうけど、ほら。痛いっていうしさ……」

「なんで君がそっちを気にするの」

「いや、気にするだろ」


 血が出るって聞くし、何より血を見たくない。大丈夫ってわかってても血を見たら心配できっとそれどころじゃない。


「そうかな」

「そうだよ」

「ふーん」


 どうにか納得してくれたようだ。説得できなかったら全力でコンビニダッシュするところだった。何を買うかは言わずもがな。


「朝ご飯作らなきゃ。お弁当、は食材使うの気が引けるからパンでも買おうか」

「手伝うよ。パンはトースターだし、野菜添えるだけだし、あと卵焼くだけだろ」

「……じゃあ、やってもらおっかな。卵」


 うん? なんか今、間があったような。

 パジャマのまま二人でキッチンへと向かう。この日、俺は目玉焼きが案外難しいことを知った。




 支度をして一緒に学校へと向かうが、なんだかそわそわしてしまう。

 平日に二人で休んだのだ。すれ違う同じ制服の人を見る度に同じクラスの奴じゃないかと不安になる。それは春乃も同じなようで、ちょっと耳が赤かった。

 それでも別々に行こうとは言わないところは流石だ。


「お二人とも、今朝はお楽しみだったね」


 背後から声がして俺たちは慌てて後ろを振り返った。横目に春乃を見るが互いに顔が真っ赤なようだ。

 そこにいたのは美香だった。


「み、美香ちゃん。おはよう。べ、別にお楽しみじゃなかったよ」

「おはよ。てか、えー。兄ちゃんお預け食らってるの」

「だ、だって誘っても乗ってこなかったのはあっちだし……」


 美香が何か言いたげな視線を送ってくる。いや、なんでだよ。ていうかお前の入れ知恵だったか。まあ、恥をかかせるなってことなんだろうけど……。

 兄のそういうことに首突っ込むなよ。


「その場の勢いでしたくなかっただけだ」

「これだから童貞は……」

「女の子が童貞だとか言っちゃいけません!」


 童貞言うなよ。お前だってただの耳年魔だろうが!


「そ、それにそういう準備もなかったしな。できちゃったら大変だろ」

「兄ちゃん。ポッケ」

「ん?」


 制服のポッケをまさぐると……あったわ。そういう準備。

 え、何。いつの間に?

 春乃まで恨めしい顔を向けてくる。いや、違うって。気づかなかったんだって。


「それくらい気づいて欲しかったなー」

「いや、美香ちゃん。兄ちゃんこういうの大事だとは思うけど買うとき恥ずかしくなかったのかい……?」

「よ、用意したの私じゃないから!」

「ん? 美香じゃないなら……ああ、そういうことか」


 上江か。美香に渡しておいたんだろうな。

 全く、本当に何なんだよアイツ。

 でもおかしいよな。こんなの渡したらアイツの目的果たせないんじゃ……。


 何となく嫌な予感がして表面を撫でてみた。

 ちょっと引っ掛かる部分がある。……やっぱ穴開いてるじゃねぇか。むしろ気づかなくてよかった。あ、あぶねぇ。気づかずに使ったら大変だった。


「美香。ちょっとコレ」

「え、汚い。そんなの渡さないでよ」

「汚い言うな。ほら」

「うげぇ……。妹にゴム渡す兄って……」


 それは言語化しないでくれよ。

 美香も俺のように表面を撫でている。そして顔を赤くした。


「え、ちょ、これ私知らな……」

「キャーみかちゃんのえっちー」


 思いっきり脛を蹴られた。いってぇ……。

 だがその遠慮のない蹴りに、血が繋がっていなくても兄妹なんだと俺はほっとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る