第24話 お泊りは唐突に

 雨が降り始めていた。

 染み込んだ雨水で制服が重くなり、進む足を止めようとする。空は俺が春乃の元へ向かうのを止めようとしていた。

 どうして邪魔をするのだろう。

 いや、きっと俺がそう感じているだけ。本当は俺の足が竦んでいる。


 俺はずっと不思議だった。

 なぜ春乃は俺を選んだのか。

 最初はただ俺が告白したからだと思っていた。俺にとって春乃は特別だけど、春乃にとって俺は特別じゃないから。

 俺の代わりはいくらでもいる。例えば岩崎だ。あいつは誰とだって友達になれる。俺みたいな奴とだってだ。変態だけど、岩崎は特別な人間だ。俺は春乃と釣り合うものがない。


 じゃあ、諦めるのか。そんなはずはない。何もないから、俺は全部を捨てられる。全部を捧げられる。

 これまで家庭問題に踏み込むのが怖かった。そこに踏み込んだら、これまで積み上げてきたものが壊れてしまう気がした。見ない振りをした。


 俺はもう、逃げない。


 立ち入り禁止のテープを過ぎ去り、廃園の遊園地へと入る。マスコット像を伝う雫が涙のようだった。

 アトラクションを一つ一つ回る。あの日の思い出が蘇る。笑った春乃が手を引いて笑っている姿。楽しかった、本当に。俺の顔になってしまっていても、それだけは変わらない。取り壊し工事が始まっている個所もある。その様子はまるで忘却のようだ。

 形を失っていき、最後にはその形すら思い出せない。

 そのことが無性に悲しかった。


 城の中へと入って階段を登る。高い場所から見渡して探そうという単純な思い付きだったのだが、その必要はなかった。


「探したよ。春乃」


 彼女は会談に腰掛けうずくまっていた。ただ城に入っただけじゃわからない位置だ。それに立ったときに足がしびれたら転げ落ちて怪我をする。そんなことも考えられないほどなのか。


 顔を上げた春乃はいつもの彼女とは別人のようだった。表情はなく、声も出さない。俺の存在に気付いているのに、何も返してこなかった。それどころかどこかがっかりしたようにも思える。あの日、瞳の奥に感じた闇を全身に纏っていた。

 これが、俺があの日見なかったものか。

 言葉が詰まる。何を言えばいい。何を言うべきだ。

 ……いや、違うな。何をするべきか、俺は知っている。


 俺は春乃の隣に座った。雨が降り出す前に来た春乃はぬれていない。対して隣にはびしょ濡れの俺。状況は全くの逆なことに心の中で苦笑する。

 隣に座って、俺は何もしなかった。ただ隣に座る。それだけでよかった。


 雨音を背景に、ただ時間が経過する。

 体から徐々に体温が奪われていく。このままでは風邪を引くだろう。

 それがどうした。だからなんだ。

 俺は今、春乃の隣から離れることは絶対にしない。


 春乃の横顔を見ていた。無表情でこそあるが、春乃らしさは何も失われてはいない。不愛想な感じはまるで幼い子どものようだ。

 長い間、見つめているとふと春乃と視線があった。さっと春乃は視線を逸らす。俺は逸らさなかった。


「……どうして。まだいるの」

「春乃がここにいるから」

「じゃ、じゃあ私が場所移るから。それでいいでしょ」

「そしたら俺もついてくよ」

「変態、変質者、ストーカー」

「恋人、だろ」


 春乃が目を泳がせている。内心ではきっと思ってもないことを言ったのだろう。慣れてないことをするからだ、全く。

 それに罵倒で俺を怒らせることができると思わないことだ。そこらの罵倒で傷つくような弱い心じゃない。

 そんなもの妹で予習済みだ。


「風邪引いちゃうでしょ」

「いいよ」

「良くないの。早く帰って」

「春乃を置いていけない」

「どうして、私を放っておいてくれないの! あのときは放っておいたくせに!」


 そうだよな、春乃が正しい。俺は選択を間違えた。わかっている。

 あのとき話を聞くべきだった。どんな内容であれ、彼女が話したいというのなら話させてやるべきだった。初デートだからいいものにしようというのは、俺のエゴだった。


 一般的なカップルになろうとしていた。枠組みにはまろうと。でもそんなもの俺たちにはいらなかったんだ。

 それに態度が変わろうが、雰囲気が変わろうが、春乃は春乃だ。優しいじゃないか。風邪を引かせたくないから早く帰らそうとしてるのが見え見えだった。


「もう、放っておかない。見ないフリはしない。どんな話だって聞く。いい話だけじゃない。悪い話だって、全部聞きたいんだ」

「後悔、するよ」

「聞かないで後悔するのは、もうごめんだよ」

「……馬鹿だね」


 はは。こいつめ。

 そうだ馬鹿なんだ。馬鹿でいい。賢く立ち回って、好かれようとしなくていい。馬鹿正直にぶつかって、わかり合いたいんだ。


「弟がね、習い事やめたいって言ったの」


 ぽつりぽつりと春乃が話し始める。俺は口を挟まず、相槌を打っていた。


 春乃は弟の習い事をやめたいというのを協力しようとしたのだという。母親と弟が言い合いになっているのに首を突っ込み、やりたくないならいいじゃない、と言ったそうだ。すると言われたそうだ。

「あんたみたいにできないからやめるんじゃない。この子はできる子なの」

 最初、春乃は母親が自分に対して口を聞いてくれたことを喜んでいた。

 の会話ができたと。歪んでいるが、徹底的に無視されているのだ。反応されるだけでも思うところがあるのだろう。だが、母親に言われて気づいた。自分が弟の習い事をやめたいという意思を利用しているだけだと。自分がやめされられたものをしている弟が、なんでもできる弟が妬ましかったのだと。


 春乃の父親は、今の父親じゃないそうだ。春乃が出来損ないだと判断した母親は父親を取り換えた。そして新しい子どもをつくり、今度は失敗しないように育てようとしているというのだ。


 馬鹿げている。そう思ったのは俺だけではない。春乃の父親もだ。春乃の父親は春乃を自分の手で育てようとしたが、母親の工作によって弁護士から接触禁止命令まで出されてしまった。春乃は一人ぼっちになってしまったのだ。

 自分の血が繋がっているのだから醜態をさらすことは許さない。外に出さず、内ではないものとして扱われる。幼い頃からされてきた名前のない虐待。

 おぞましいまでの完璧主義。それが春乃の母親だった。


 思い込みとは恐ろしい。てっきり春乃は母親に何かをされて家出したのだと思っていた。春乃は自分の心の浅ましさを恥じて逃げ出したのだ。

 俺の彼女は純粋すぎる。そんな性格じゃ、世の中生きづらいだろうに。


「引いたでしょ。私、こんな子なの。人のことが妬ましくて堪らない。嫌い。みんな大嫌い。君の恋人を演じているときは楽しかった。自分じゃない自分でいられたから。でも、もうおしまい。知られちゃったから」

「俺は言ったはずだよ、春乃。どんな話を聞いたって俺は変わらない。でも春乃は変わったっていいんだ。今の卑屈な君だって俺は愛せる。どんなに嫌われても、俺は君を嫌わない」


 春乃がたじろぐ。これでお別れにしようとしていたのだろう。

 甘いな。実に甘い。甘ったるい。


「どうして、そんなに私のために頑張るの」

「春乃に救われたから」

「そんなことした覚えないけど」


 俺は思わず笑ってしまう。

 そういうところが好きなんだ。


「不審者に襲われたあのとき、心配してくれたの春乃だけだっただろ」

「私だけ? え、皆冷たすぎない?」

「まぁ、状況的に聞きにくかったんだろうけど、俺も気丈に振る舞っちゃったからな。引っ込みがつかなかったんだ。でも春乃は空気を読まずに聞いてくれただろ」

「何その言い方。まぁ、確かに空気読めないかもしれないけどさ」


 春乃がなんかいじけ始めた。かーわい。


「言い方が悪かったかな。春乃は壊してくれたんだ。そういう俺の下らないプライドみたいなものをさ。どうしてか、俺は怖かった。自分以外の人が。どう接すればいいのか分からなくて、強がってたんだ」

「ふーん。そうなの? それで勢いで告白?」

「そ、それはまぁ、そうなっちゃうかな」


 春乃が先に告白とか言ってきたとかは言わないであげよう。


「ふふ。そっか。変わらないんだね。本当に」

「春乃は自分のことを低く見過……えっくし!」


 やばい雨に濡れたまま放っとき過ぎたな。

 くしゃみまで出てきた。ずびずび鼻水をすする。


「わ、ど、どうしよ」

「とりあえず、俺の家行こうか。学校の時間だから下手にどっか行けないし」

「え、わ、わわ。うん。そうだね」


 二人で雨の中を小走りで走り出す。ようやく同じ気持ちに慣れた気がした。


「ねぇ!」

「ん? どうした春乃」

「しばらく泊まってもいいかな!」


 思わず顔が固まる。確かにシャワーくらいは浴びていけばいいんじゃないかなと思っていた。でも、ちょ、え? 一つ屋根の下ですか?

 冷え切っていたはずの体が火照り始める。


「と、泊まっていけよ」


 何かないかなんて、き、期待なんてしてねぇよ? 俺の声は裏返っていた。



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