第22話 彼女の願い

 用が済んだと言わんばかりに、上江は図書室を出て行った。何が聞きたいと言っておきながら、大したことも言わずに。そんなもので満足できるはずもなく、話を聞くために後を追った。しかし廊下に出たときにはその姿はない。しばらく探して回ったがどこにもいなかった。


 俺の記憶を消しに来たんじゃなかったのか。

 意味が分からない。分からないと言えば、俺の病気のこともだ。

 てっきり上江が手がかりを持っていると踏んでいたのだが、知らない様子だった。わざわざ嘘をつく必要がない。きっと本当に知らないのだろう。


 だとしたら一体何が原因なんだ。他人の顔が自分の顔に見えるなんて病気に決まっているじゃないか。まさか春乃が原因とかないよな。


 誰もいなくなった夕暮れの廊下を進む。靴裏が床に擦れてキュッキュと音を鳴らしていた。頬に風を感じる。顔を上げると無意識に俺が突き落とされた場所の前まで来ていた。

 少し身を乗り出して外を覗く。高さは三階までないくらい。下はコンクリート。あそこに落ちそうになっていたんだな。上から覗くのは初めてだ。


 思えばここから全てが始まった。不審者との一件がなければ春乃と恋仲になることもなかっただろう。奴のことは嫌いだが、そのことに関しては感謝してもいい。死んで欲しいなんて、俺は思っていなかった。


「お兄ちゃん!」


 いきなり後ろから誰かが抱きついてきた。

 誰かは言うまでもないが、多分美香だろう。ずっと探していたのに自分から出てくるとは。聞きたいことは山ほどあるが、質問よりも前に懐かしい呼ばれ方をされたに俺は気が向いていた。


「やだよ。せっかく、残してもらったのに、死んじゃ、やだよ……」


 ……ああ、そういうことか。ここに身を乗り出すのは危ないからな。俺が自殺しようとしているように見えたのだろう。

 なんだよ。やっぱり敵なんかじゃなかったんじゃないか。

 でもやっぱり何か知っているのだろう。せっかく残してもらったのに、か。


「美香。落ち着いて。兄ちゃんはちょっと考え事してただけだから。自殺なんて考えてないよ」

「ほんと?」

「ほんとほんと。誤解するようなことしちゃったな」


 ボロボロと涙を流す妹の頭を撫でる。大量のヘアピンがちょっと邪魔くさい。可愛いけど多すぎるだろ。わしゃわしゃできないじゃないか。あ、させないためかコレ。今更気づいてしまった。

 ぐずっている妹が落ち着くのを待っていると、鼻声のまま美香は問いかけてきた。


「兄ちゃん、どこまで聞いたの」

「全然。俺のこと聞くだけ聞いて行っちまったよ」

「何を言ったのさ」

「んー……どうしよう。春乃にも言ってないことなんだけど」

「いや、兄ちゃん。上江さんに言っちゃってるんだったら意味ないじゃん」


 え、い、いや、あれはだって、しょうがなくないか?

 でも確かになぁ。言っちゃったなら妹にも言うしかないか。どうせ伝わっちゃうんだろうし。


「えっと、だな。他人の顔が俺の顔に見えるんだ。今もお前の顔が俺だ」

「……ごめん兄ちゃん。何言ってるのかさっぱりわかんない」

「俺も最初はそうだったよ。何が起きてるのかさっぱりわからなかった。時々戻ったりもしたんだけど、結局治し方がわからなくてな。まぁ、そんなことはどうでもいい。上江が殺した人もそうだったんだよ」

「そうだったって……兄ちゃん不審者と会ったの!? いつ、どこで!」


 おおう。すごい食いつきだ。心配してくれてたのは分かってたけど、こんなに過保護だったのか。殺されかけた不審者にあったくらいで……いや、大したことあったわ。過保護にもなるか。

 駄目だな最近。認識が歪み過ぎてる。


「つい先日だよ。何だ。知らされてなかったのか」

「私が知らされたのは危険要因を処理したってことだけだよ。道理で昨日あんなに怯えて……はぁ。音声聞かれたってだけじゃなかったんだね」


 案外、頻繁に連絡を取っていたらしい。流石にゲームの中でとか言わないよな。処理したって、結構頻繁にあるのか人殺しが。嫌だなぁ。妹が平然に処理とか言ってるの。

 どうしよう。聞きたいことが多すぎて、何から聞いていいかわからないな。


「なぁ、美香。知ってること全部教えてくれないか」


 聞いても聞いてもそこがみえなくなりそうなので、一括することにした。これならわざわざ知らないことを聞く必要もなくて画期的だろう。


「……ごめん。できない」

「それは緘口令的な、制限でってことか?」

「違うんだけど、兄ちゃんに知られたくない」


 知られたくないって、俺のことだけじゃないのか。美香にも秘密があるなら、どんな秘密なのだろう。いや知られたくないって言ってるんだから無理に聞かなくてもいいかな。


「なら話せる範囲で何かないか?」

「そだね。あんなことがあって信じられないかもしれないけど、上江さんが兄ちゃんに危害を加えることはないから安心していいよ」


 いくら何でも、それは信用できない。

 実際に記憶を消されたし、何度も俺に探りを入れてきた。気づかれたのなら殺してやるという意味だと考えるのは普通だろうに。


「それは、俺が人だから?」

「まぁ、うん。そだよ」

「美香だって人だろ」

「人だよ。少なくとも私にとっては」

「……なんだその含みのある言い方」

「最大限の譲歩かな」


 ああ、さっきの知られたくないことか。

 まさかアンドロイドですとか言わないよな? 美香の頬を少し引っ張ってみる。柔らかいな。あ、新発見。俺の顔でも歯並びは違うんだ。綺麗な歯だな。綺麗すぎて逆に疑わしい。歯並びが違うなら、これから歯で見分けて付けてみるか? 無理だろうけど。


「にーひゃん、やめへ」

「ああ、悪い。知られたくないのに詮索しちゃったな」

「別に歯を見たりするぐらいならいいけど、妹に欲情しないで」

「ああ、そう。てかしてねぇよ」


 俺そんなに性欲剥き出しに見えるのだろうか。心外だ。

 野郎は皆そうなんだよ。多分俺はマシなほうだ。知らんけど。


「美香はどうして上江と連絡とってるんだよ」

「秘密」

「えぇ……」


 なんでさっきのが良くて、これは話さないんだよ。いらないよ人間だったとか妹の歯並びの情報とか。どこで役立てればいいんだ。岩崎か? 岩崎に教えてやればいいのか。世の中には特殊な方もいるらしいし、そういう人にとってはお宝かもしれない。


「……兄ちゃん今変なこと考えなかった?」

「い、いや? 何も?」


 いけないいけない。妹様の前では全てお見通しだ。邪な考えは捨てよう。

 えー……でもどうしたもんかなコレ。


「なぁ、美香。俺の病気については何か分からないか?」

「聞いたことない。上江さんに分からないなら私がわかるはずないもん」


 おお、妹が俺みたいなこと言ってる。そうだよな。妹に分からなきゃ俺に割るはずもないもんな。仕方ない諦めよう。


「兄ちゃん。これ以上は知らない方がいいと思う」

「どうして止めるんだ。知ったら殺されるのか?」

「ううん。断言するけど、それは無い。でも兄ちゃんの行動によっては記憶が消されちゃうから」


 うわぁ嫌だ。つまりさっきの俺は記憶が消される可能性があった。だから残してもらったとか言ってたのか。

 知られても殺されず、行動次第で記憶を消すってどういう状況だよ。

 俺を殺さないってことはわかるけど、逆に殺さないことの方が不思議に感じてきた。知られたら困るのに、どうして生かしておくんだろう。不殺主義ってわけでもあるまいし。


「ねぇ、兄ちゃん」


 美香がまた抱きついてきた。お、おう。嬉しいけどさ、そういうことされると春乃にまたチクチク言われそうで嫌だ。まぁ、背中を撫でてやるとするか。


「兄ちゃんは今、幸せ?」

「なんかそれ上江にも言われたような……」

「いいから答えて」

「ああ、うん。幸せだよ」

「だったら知らなくていいことを知る必要ないんじゃないの?」

「そうかもしれないな」

「だからさ、このままでいようよ」

「……」


 俺は何も答えなかった。美香もそれが分かっていたように感じる。

 互いに無言のまま時間が過ぎていく。どのくらい過ぎたころだろうか。下校のチャイムが鳴った。美香は腕を離し、春乃のところに早く行けと言って去っていく。服に残った美香の体温がやけに早く消えていったような気がした。

 


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