第20話 悪魔を知るとき
目覚ましが鳴る前に起床していた。
窓の外では相変わらず俺の顔をした人が歩いている。昨日と何も変わらない。曇天の空にカラスが鳴いていた。
誰も空を見ていない。なぜ誰も昨日と違うことに気づかないのだろうか。
昨日、あの電話を聞いた俺は無我夢中で逃げた。
銃声と崩れ落ちたと思われる鈍い音。そこにはあまりにも生々しい死の匂いがあった。俺が電話を掛けたのは公衆電話だ。場所が特定されるわけもない。だがそれは常識の範囲内でのことだ。
電話の向こうは非常識だった。俺の常識がなぜ通じるというのだろう。
怖かった。振り向けばスーツの女が俺の後ろで銃口を向けているのではないか。そんな想像を拭い去ることができなかった。
玄関をくぐった俺は内側から鍵をかけ、背中でその扉を抑えていた。息を切らして怯える俺の慌てように妹が困惑していたのを覚えている。どうしたのという問いかけに答えずに、俺は妹の胸に抱きついた。最初こそ罵倒を浴びせてきた妹だが、様子がいつもと違うことに気が付くと優しく俺の背中を撫でた。俺は赤子のように泣きじゃくっていた。怖かった。何か大事なものを失ってしまいそうで、怖かったんだ。
「おはよう。兄ちゃん」
普段のように接してくれるのは妹なりの優しさなのだろうか。
その普段は前のことで最近の普段ならもっと毒舌だったとか、そんなツッコミをする気力もない。玄関にはきっともう春乃がいるのだろう。春乃は俺に置いて行かれたことについて少し嫌味をいうかもしれない。或いは、あえて何も聞かないでくれるかもしれない。
普通だ。何も変わらない。ただ本当にそうかという猜疑心を捨て去ることができなかった。
「おはよう美香。昨日は、その。ありがとな」
「どいたしまして。兄ちゃん、今日は休んだっていいんだよ?」
魅力的な提案だ。確かに俺は今、外に出ることが怖い。ただ確かめないといけなかった。何か変わっていないか、何か失っていないかを。
もし失われるのが春乃だったらと思うと背筋が凍る。
なぜあのときなぜ春乃のことを考えずに逃げてしまったのかと、俺は一生消えない傷を負うだろう。確かめるのが怖い。でもこのまま知らないままでいるのが一番駄目なことだ。
「ちゃんと行くよ。春乃が待ってる」
「……そっか。わかった。でもね、兄ちゃん。これだけは忘れないで欲しんだけどさ。そんなに頑張らなくてもいいんだよ?」
その言葉に意思が揺ぐ。
確かに俺はここところ頑張りすぎていた。ずっと平気なふりをして、精神をすり減らしてきたのだ。
ここで一度休んだ方がいいんじゃないだろうか。
あの電話も実際に現場を見たわけじゃないんだ。勘違いの可能性もある。それを想像力豊かに考えてしまっただけのこと。そうだよ、いいじゃないか。春乃に被害が及ぶのだって考え過ぎだ。むしろ俺があっていたら何かを知ったと思われて逆に被害を受けたかもしれない。
そうだよ、頑張らなくたって、春乃にも風邪を引いたとでもいえ、ば……。
「いや、行くよ」
全く、意志薄弱な自分が嫌になる。
春乃をこれ以上は騙さない。俺はそう決めているのだ。
「……わかったよ、兄ちゃん。気を付けてね」
「ああ。美香は遅刻するなよ」
朝食を食べ終わり、バックを持った俺は玄関へ向かった。ドアノブを握った右手がもし春乃がいなかったらと開けることを拒んでいる。左腕でもドアノブを握り、扉を開けた。
扉を開けた先、そこに春乃はいなかった。
肩から鞄がずり落ちる。どさりと落下した音で俺の中で何かが崩れ去ったような気がした。
「ばぁ!」
「うぉおおおおお!?」
扉の後ろから俺の顔が飛び出してきた。なんだこいつ気持ち悪っ!?
春乃を失った心の怪我で何も感じられないみたいな感じだったのに、てめぇの顔でビビっちまったじゃねぇかどうしてくれる。
「あはは。どっきり大成功!」
その声でようやく状況を理解した。
春乃だ。よく見れば髪にあのヘアピンを付けている。なんだ、無事だったか。よかった、本当に。安心したよ。
「もー。昨日は待ってると思って門が締まるまで待ってたんだからね」
ぷんすかとテンプレな怒り方をしている春乃を俺は力強く抱きしめた。突然のことで春乃は固まっている。だが思考が追い付いたのか、素っ頓狂な声を上げた。
「へぇ!?」
「ごめん。悪かった。本当に、すまない」
ああ、温かい。生きてる。俺も、生きてるんだ。
髪に顔を埋め、匂いを嗅ぐ。もっと近くに彼女を感じたかった。
「ちょ、ちょ、ちょっと何してるの! 恥ずかしいから嗅がないで!」
「大丈夫。いい匂いだから」
「そういう問題じゃないの!」
顔を赤くした春乃に引きはがされてしまう。
なんだよ、恥ずかしがることないのに。
「も、もう! 今日はいつになく衝動的だね。何かあったの?」
「そ、れは、まあ、ちょっとね。昨日のことだよ」
あの男のことは隠さない。さっきこれ以上嘘をつかないって決めたからな。
隠せるものじゃないし、隠したところで意味がない。
「昨日のことって?」
「ほら、今朝の。忘れたのか」
「何かあったかな」
「ほら、会っただろ。あの男に」
「んー私と一緒のときじゃないと思うな。美香ちゃんといたときじゃない?」
忘れるなんて珍しい、そう言おうとしたとき、ふと彼女が前に言った言葉を思い出した。
忘れる? 春乃が? それは本当に春乃が忘れたのか。あり得ない。
春乃は言った。覚えるのは苦手だが、覚えたことは忘れないと。ならば春乃は忘れたのではない。
「は、春乃。前にあった教育委員会の人に合わなかったか?」
「え? どうして知ってるの?」
繋がった。繋がってしまった。
春乃は忘れたのではない。あんな直近の出来事を忘れる春乃じゃない。あの女には何かがあると思っていた。
春乃は、忘れさせられたのだ。
「やりやがった」
ふつふつと怒りが沸いてくる。
あの男を覚えられていては都合が悪かったのだろう。だから春乃を狙った。なぜ俺を先に狙わないのかはわかる。記憶を消せるのなら、急ぐまでもないのだ。
前に図書室であったときにも俺は恐らく記憶を消されている。あのときの記憶の欠落は意図的なものだった。
わからないのは目的だ。あのスーツの女は何が目的で動いている?
くそ。思考がうまくまとまらない。まさか、考えられないようにしているとでもいうのか。スーツの女と無意識に読んでいたが、それもあの女の操作なのかもしれない。上江波呂とか言ったか。上江と呼ぶことにしよう。
初めてあったときを思い出せ。上江は何と言った。元気にしてたかい、だったか? やけに親しげだったような。
いや、待て。親しげ? まさか俺は上江を知っていたのか?
一体、どこで。どういう出会いだったんだ。
そもそも関わりあう機会がないはずだろ。学校ではない。春乃が上江と会ったときも知らないようだった。
「やりやがったって、どういうこと?」
「春乃はあの教育委員会の女と前にあったことはあるか」
「校門で一緒に見たのが初めだよ。知ってるでしょ」
「まあ、そうだよな。なんか馴れ馴れしい感じは?」
「礼儀正しい人だったと思うけど。でもちょっととげとげしかったかも」
うん。春乃は昔からの知り合いだったということはなさそうだ。しかし手がかりがないな。こういうときに妹の意見を聞けたらいいのに。
教育委員会の人って知っていたしな。
いや、待て。
何故知っていたんだ。もしかして。もしかしてだが、知り合いだったのか。出会ったとしたら、いや、まさかそんな。
「美香……?」
俺の記憶が消されたときに、なのか?
そんな馬鹿なことがあるか。まだどこか違う場所で知っていたかもしれないじゃないか。無知の無知って言葉だって、知らなかった。いや、でも無知の知を知っていて問いかけてきたのは美香だ。おそらくそれを上江も言っている。
信じたくない。嘘だと言ってくれ。
疑うべき相手は、俺が最も信頼する人だった。
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