第19話 狂人
殺されかけた相手を前に、俺は身動きが取れずにいた。
足は震えていたが、動く。正直、逃げることはできた。逃げたかった。だが逃げるわけにはいかなかった。
なぜかって、隣に春乃がいたからだ。
奴が俺の横でふらついたのは意図的だろう。春乃を連れて走ったところで逃げられるかわからない。逃げきれたとして、奴も俺も同じ病だ。奴がまた現れたときに俺は奴に気づくことができない。それは奴にとっても同じのはずだが、今回あっさりと待ち伏せされていたことを考えると見分け方があるのだろう。奴は俺の病を知っていたし、俺もなぜか奴が同じ病だと分かった。
わからない。自分のことも、こいつのことも。目的は一体なんだ。あの日、警察に捕まったんじゃなかったのか。
「まあ、そう怖がるな。俺はお前の味方なんだぜ」
こんなに胡散臭い台詞が他にあるだろうか。騙そうとしてくる奴の常套句を本当に言う奴がいるとは。
意図的じゃなかったとしても俺はこいつに殺されかけた。それだけは変わらない。突き落とした奴が助けたって自作自演だ。
「少し話したいだけなんだ。いいだろ? ケチケチしないでさぁ。別にいいんだぜ。そっちの彼女さんに話しちまっても。どうせ話してないんだろ」
「な……!?」
危険だ。こいつは信用できない。
初対面で脅迫してくるなんて、よほど聞きたいことでもあるのか? 俺に話せることなんてない。そんなものあったら、すぐ話して解放してもらっている。どうしてそんなことがわからないんだ。
馬鹿野郎め。
まぁ、教えて用済みとかなったら困るから知ってても話さないし、知らないことも教えないが。
そもそもさっきの現象に理解が追い付いていない。触れただけで相手の視界を見ることができた。人間に搭載していい機能じゃない。同じだ、ということは同じ病に罹ったもの同士にしかわからないものがあるということか。
「ねぇ、どうしたの。この人知り合いなの? 話してないことって何?」
「……顔見知りってところかな。あれは口から出まかせだよ。春乃は、心配しなくていいから」
混乱しているのか、こいつが何者か掴めていないようだ。春乃には悪いが、都合がいい。
春乃が奴が不審者だと気づいたら、きっと俺を守ろうとする。その気持ちは嬉しいが、怪我でもしたら俺は自分を許せない。
春乃はあの事件の日、学校に来ていなかったから不審者について知っていることが少ないのだろう。顔が分からないのも仕方ない。そもそも顔をしっかりみた人間なんてほとんどいないのだ。俺を置いて逃げやがったからな。
何にせよ、ここで教えるべきじゃない。最悪の事態は春乃に被害が及ぶことだ。できれば先に学校に向かわせたい。
考えろ。春乃が理解してくれる提案を。俺を置いてここから離れてくれる嘘を。
だらだらと汗を流す俺を見て、男がため息をついた。
「なんでお前は自分相手にそんな必死なんだ」
「……何を言ってる?」
自分相手にって何だよ。日本語不自由か? 自分のことだから必死なんじゃない。春乃がいるから俺は焦ってるんだ。
「訳がわからないって顔だな。さては前に言ったこと覚えてないな。駄目だぞ、人の話はちゃんと聞かないと」
「一方的に話してるだけだったし、興味がなかった」
「そうかいそうかい。なら知りたくなったとき、ここに連絡しろ」
懐から取り出したメモ帳に何かを書き殴り、それを破いて丸めて投げてよこしてきた。思わず避け、ちり紙が地面に転がる。
それを見て男は信じられないものを見る目をした。
「お前、人から渡されたものをよぉ……」
「渡すってか、投げただろ」
俺悪くないよな? とはいえ、剃刀が仕込まれてるわけでもないのはわかっている。
おそるおそる拾って広げてみると電話番号が書かれていた。
「いいか。これだけは覚えておけ。この世界は偽物だ。俺たちだけが正常だ。俺たちは知らなければならない」
「知らなければって、何を」
「知らないことをだ」
じゃあな、と一言残して男は去っていった。俺は茫然と眺めることしかできない。
心配してくれたのか、春乃が手を握ってくる。冷たい手だった。手が冷たい人は心が温かい、だったか。温まるよ、心が。俺は冷たいからな。
そのぬくもりに心やすらぎながら、俺は無知の知という言葉を思い出していた。
チャイムが鳴っていた。気がつけば一日の授業が終わっている。
あの男のことが頭から離れなかった。
断じて恋慕ではない。それは冗談でも許さん。
……まぁ、冗談を言えるくらいには冷静になれた。だがまだ内容の整理ができていないのも事実だ。
この世界が偽物だと言われて、どこか納得している自分がいる。道ゆく人が俺の顔をしていたときから現実感がなかった。
なら春乃も偽物か。いいや違う。握ってくれた手の温かさは偽りじゃない。
おかしいのは俺の方だ。視界がおかしいのは俺なのだから。狂っているのは俺に違いない。
春乃は生徒会の仕事だ。夏休みが近づいているから、その準備で大忙しらしい。
俺は春乃に待ってるから、と言わなかった。もちろん、待つつもりではいる。その間に電話をかけようとしているだけで。
……情けない。
春乃は言ってくれた。俺と奴は違うと。
でも好奇心には勝てない。知らないと知ってしまったからには知らずにはいられないのだ。
スマホから電話をかけようかと思ったが手が止まる。近くに電話ボックスがあったはずだ。自分の携帯番号を知られるのは危険なことくらいわかる。妹仕込みの知識だけどな。
慣れない電話ボックスに苦戦しながら電話をかけると、3回目のコールで奴は電話に出た。
「遅、かった、な」
早い方だろ、と口にしようとした言葉が声にならない。
異変に気づいたからだ。息が荒い。過呼吸のようにひゅーひゅーと呼吸している。咳をするたびに液体が飛び散る音がした。
「怪我を、してるのか?」
「げほ……やっち、まったよ。戦お、うなんてだ、なんてするもんじゃ、なかった」
「戦う?」
事故でも災害でもなく、誰かにやられたということなのか。確かに不審者だし、俺を突き落としそうになった罪人だ。
自業自得なのだろう。
同情はしないが、流石にやりすぎじゃないか? 声を聞く限り相当な重症だ。
「お、もいだせ。お前のき、おくを」
「き、記憶?」
「わ、からないなら、う、疑え。誰かの記憶でも写真でもなんでも、いい。そ、れを、おま、えは覚えていないはずだ」
心当たりは、ある。
例えば廃園になった遊園地、あのまろランドの記憶だ。あそこで遊んだはずなのに記憶にない。
「俺たちは、さいーー」
電話口から銃声が鳴る。
耳鳴りのような残響もなく、ただ破裂音の後に崩れ落ちる音がした。
「困るな。そういうことされると。失敗作は残しておくべきじゃなかった」
淡々とした口調、独特の喋り声。誰が話しているか、すぐにわかった。
あのスーツの女だ。
「君も聞いているんだろ。どこまで聴いた?」
「……何も」
「へぇ。私が誰かを質問しないのか。記憶が戻っているな」
迂闊。くそ、学ばねぇな俺は。
「君は無知のーー」
寒気を感じて俺は電話を切った。慌てていたせいで更なる墓穴を掘ってしまった気がする。
「くそ、なんなんだよ」
いきなり現れた不審者はおそらく死んだ。
そんな場面を聴いていたのに、俺は取り乱さなかった。そしてそこに現れたあのスーツ女。きっとあの女が殺したのだ。
警察が聞いてくれるだろうか。何も証拠がないのだ。携帯で聞いていなかったことを後悔する。
おかしいのは不審者か、スーツの女か。きっとみんな狂っている。
俺は今このとき、狂人になっていた。
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