第18話 恐怖は足音を立てずに
目覚ましを止め、窓の外を確認する。細かな雨が降り、ビニール傘に透けて見える人の顔は俺の顔。やはり俺の病気は治っていない。まだ五日目だ。なのに窓の外を確認する行為が生まれてからずっと続けてきた習慣のように思える。
スマホのカメラを向け、画面を覗く。ちゃんとその人の顔がわかる。俺の顔じゃない姿だ。眼鏡をかけてもこの症状は治らないのに、カメラ越しだと変化するのだから不思議だ。
正しいのは画面越しの光景。
間違っているのはきっと俺だろう。誰か教えて欲しい。俺が一体、何をしたっていうんだ。せめて罰を受けるなら理由が欲しい。
「て、スマホ向けてたら盗撮に勘違いされるか」
じわじわと地面を濡らしていく雨に感謝する。一見、スマホを見ているようにしか見えないし、大丈夫だとは思うが勘違いされる行動は慎まないといけない。
朝食をとり、諸々の支度を終えたところで後ろからいきなり抱きつかれた。
え、誰だ? 春乃ではないよな。玄関で待っているはずだ。頭の当たっている位に手を回す。この手に感じる数多のペアピンは美香か。
「……えっと、おはよう?」
「おはよ。兄ちゃん」
いつから妹はコアラになったのだろう。兄ちゃんは止まり木じゃない。春乃を待たせているから早くでなければいけないんだ。
だがせっかく妹が引っ付いてくれているのに引きはがすのもな。
こうして甘えてくるのなんか初めてじゃないか? そう考えるとより引きはがせない。むしろこのまま学校に持って行ってやったほうがいいまである。遅刻魔だしなコイツ。
「どうした、怖い夢でも見たのか」
「うん」
あら可愛い。そういえば案外甘えん坊だったか。
確かに怖い夢を見たときは不安になるよな。わかる。美香は賢いから現実ならそうはならないように立ち回れるはずだ。でも夢はコントロールできない。支配できないものは怖い、というのは全人類の共通事項だ。
妹様とはいえ苦手もものもある。
「よしよし。怖かったな」
ぎゅっと抱きしめて撫でてやる。こういうのは母さんの役目なんだけどな。今は台所で洗いものをしている。
思えば美香には優しくしてこそいるが実際に何かしてあげたことは少ない。賢いからそもそも失敗しないのだ。加えて俺は幼い頃をさっぱり覚えていない。だから兄貴らしいことができているのが心地よかった。
もう妹は高一なのにな。
「どんな夢だったんだよ」
「兄ちゃんがいなくなっちゃう夢」
一体どんな怖い夢かと思ったら俺かよ。全く、それのどこが怖いんだ。俺はその夢羨ましいぐらいだぞ。どんだけ俺の群れがいると思ってんだ。
「俺は突然いなくなったりしないから安心しろって」
「絶対?」
「絶対だ。約束する」
妹と指切りしてから玄関へと向かう。結構、時間を食ってしまった。
ドアを開けると雨にスカートの裾を濡らした春乃の姿がある。一体いつか待っていたのだろうか。今度から俺が迎えに行った方がいいかもしれない。
「おはよう。いい天気、ではないけど、いい日だね」
「おはよう春乃。一緒ならいつだっていい日だよ。それに、待たせちゃったみたいだ。ごめんな」
「ぜんぜん待ってないよ。行こ」
……春乃のちょっと臭い台詞言って反応がないときは、わざと聞かなかったフリをしているのか、それとも本当に気付いていないのか。
天然かも知れないな。しっかり言葉にしないと気づかないし。はっきり言葉にしていた今回は分かってたよな。やっぱ聞かなかったフリなのか。でも春乃そういうのしなさそうだし。
まあ、どっちだっていいんだけどさ。
何気ない話をしながら登校していると前からフラフラとした足取りの男がふと視界に入った。まだ若い。二十代だろう。よほど大事なのか旅行のバックのようなものを抱いている。うつむき気味で顔が見えない。酔っているのか体調が悪いのかわからないが、どうにも危なっかしかった。俺の横を通り過ぎたときに男が転びそうになる。
「おっと!」
反射的に男の腕を掴んで体を支えた。
春乃が目を丸くしている。俺も自分に驚きだ。自分がこんなとっさに動けるとは。案外、こんな感じであっさりと火事場の馬鹿力とか出るんだろうな。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。すまなかった、押してしまって」
「何ともないですよ。怪我はなさそうですね。よかった」
この人、どっかで聞いた声だな。どこでだろう。最近、本当に思い出せないことが多いな。顔見ても俺だし。困るんだよな、こういうとき。本当にいかれてるよ。なんだよ俺の顔って。
もしかしてテレビの有名人とかだろうか。横目で春乃の様子を見てみるが、そんなことはなさそうだ。仮に有名人だとしてバック持って足フラフラしてたら麻薬とかやってるんじゃないかって話だよな。ちょっと不用心だった。
「転んだら大変だったんだ。本当に助かったよ。何かお礼がしたい」
……ほらな、不用心だっただろ?
怪しさ満点だ。これでこの男が悪事に手を伸ばしていたとしてみろ。お礼を貰ったとしたら犯罪の片棒を担いだことになる。
そして俺たちの仲間だと言われたくなかったら協力しろと、まず小さな頼みごとをされるのだ。次へ次へと頼みごとを引き受けるうち、本当に引き返せないところに来てしまう。
地獄の入り口はそこかしこにあるのだ。
ビバ妹。美香の豆知識は役に立つ。
「お礼なんていりませんよ。では俺たちはこれで」
「待って、待ってくれ。そんなに急ぐなよ」
「急ぐでしょう。制服なのお分かりですか。登校中なもので」
男は俺の腕を掴んで、汚らしく笑う。おいやめろ俺の顔でやるんじゃねぇ。
なんだこいつは。やばい奴だったのか。しまったな、春乃まで巻き込まれたら最悪だ。春乃に少し離れてるようにハンドサインを送る。わかってくれるか少し心配だったがちゃんと応じてくれた。
「そんなに急いだって解決はしないんだぜ」
「俺はただ倒れそうなあんたを支えただけ。解決もくそったれもないだろ」
「確かにそうだ。だがこれでもそうは言えるのか、な!」
いきなり語気を強めた男に俺はとっさに身構えた。
なんだ。ナイフか? それとも銃か?
どちらでもない。男がしたことは俺の手を握ることだった。手のひらに針や道具が仕込まれていたわけではない。ただ手を握っただけ。
何がしたいんだこいつ。仲直りの握手とか言ったらぶん殴るぞ。
普段なら、そう思っただろう。しかしそうはならなかった。
手が握られた瞬間に腕が痺れる。その痺れは男の手から伝ってきた。手を通り、腕を通り、脊髄へ到達し脳へと送られたとき、幻覚を見た。
制服を着た男と女が同じ顔で立っている。比喩表現ではない。
双子のように全く同じ顔の作りをしているのだ。女の髪留めに俺は見覚えがある。それは俺が春乃に渡した一点ものだった。
これは幻覚ではない。男の見ている光景だった。
すぐに俺は自分の視界に戻った。そして理解する。こいつは俺と同じだ。どういう訳か、理解してしまった。この男は、俺と同じ病に罹っている。
理由も理屈も分からない。
そして、俺はこの男が誰かを知っていた。
「ど、どうしてあんたがここにいるんだ」
声が震える。足が痙攣していた。
どうして気づかなかった。あの声を俺は悪夢の中で幾度も聞いたはずだ。こいつのことで俺を訪ねてきたものがいたはずだ。
だがそれも仕方のないことに思える。なぜならこいつがここにいるはずがないのだから。
「怯えるなよ。ちゃんと謝ったじゃないか。押してしまって悪かったってさ」
一月前に学校へ侵入した不審者。突き落とされて死にそうになった元凶が俺の前に立っていた。
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