第15話 無知の無知
「今回は未遂だからこのぐらいにしてあげる」
「春乃様、寛大なお心感謝致します……」
「次はないからね」
正座で痺れた足を揉みながら俺は立ち上がった。春乃に言われて正座をしたわけじゃない。こうすべきだと体が動いたのだ。
理路整然と自分の駄目なところ突き付けられると心が砕けそうになる。正直すでに限界間近だ。本当に他の女の子に手を出したらどうなるかなど考えたくもない。そもそも手を出すつもりはなかった。ちょっと観察するだけのつもりだったんだ。
恐るべし。ツインマウンテン。
今だけは皆が俺の顔に見えることに感謝だ。おかげで冷静になれた。
「先輩、足が小鹿のようであります。大丈夫ですか」
「受けるべき罰だ、気にするな。ぺぱ……いや、椛田」
「嫌です! ぺぱ子と呼んでくださいであります」
こっちが嫌だよ。春乃にこのまま説教続けられでもしたらどうしてくれる。他の女の子にあだ名呼びなんてもうしないぞ俺は。それとも先輩の泣き顔が見たいのか。
いいのか泣くぞ。隣で泣いてる赤子も泣き止んでドン引きするぐらい泣くぞ。
「いいよ。ぺぱ子ちゃんは特別に許してあげる」
「だ、そうだぺぱ子。よかったな。春乃にお礼を言いなさい」
「先輩、ありがとうございますですあります」
「え、あ、はい。どういたしまして?」
やはりあの連続は頭おかしいよな。春乃も面食らっている。
だがすぐに切り替えてキリっとしていた。この辺りは素直に尊敬する。生徒会はやっぱ違うね。うんうんとうなづいていると耳を引っ張られた。
「ちょっと、どうしてぺぱ子ちゃんにお礼言わせるの。そこは君でしょ」
「いてて、そ、そうだな。ありがとうございます。でも俺ちゃんと言われた通り、最初にぺぱ子のことを椛田って呼ぼうとしたんだよ。そしたらぺぱ子って呼べって騒ぐもんだからさ」
「あ、そうだったんだね。約束守ろうとしてくれてたんだね。嬉しい。ありがと」
「どういたしまして。当たり前だろ。俺の目には春乃しか映ってないよ」
だって全部俺の顔だし。……このくだり前もやったな。
すると俺たちを見てぺぱ子が顔を赤くする。
「先輩、ラブラブであります。恋人でありますか」
「そうだよ。というか、ぺぱ子。先輩先輩って俺たち二人とも先輩なんだからどっちがどっちかわからないだろうが」
「先輩は先輩です。先輩以外にないであります」
「それはそうなんだけどさ」
「ぺぱ子ちゃんは真面目なんだね」
「それだけが取り柄でありますです」
これまでの会話を聞いて春乃はぺぱ子が不思議ちゃんなことはよくわかったらしい。最初はどこか敵対心を感じる話し方をしていたが、今は穏やかなに話しているのがよく分かる。しかし、皆の顔が俺に見えるようになってから声や雰囲気のようなものに敏感になった気がするな。怪我の功名ってやつだ。治る気配ないけど。
「さて。お礼も言ったし俺は帰ろうかな」
「私はまだ生徒会のお仕事があるんだ。先に返ってて」
「待ってるよ。当たり前だろ」
「ふふ。ありがと。じゃあ、後でね」
手を振って春乃を見送る。さて、どうやって時間潰すかな。
「やあ。あれから体調はどうかな」
背後から突然声がして俺たちは振り返った。後ろにいたのは今朝のスーツの女だ。いつの間に後ろにいたのだろう。
この部屋にドアは二つある。後ろのドアから入ってきたのは確かだ。全く気が付かなかった。ぺぱ子は気が動転したのか両手を挙げている。落ち着け。
「えっと、俺ですか」
「そうだよ。元気かい」
「元気ですけど……?」
「ならよかった。安心したよ」
なんだこの人。初対面の癖に随分とフランクだな。俺のことを写真とかで知ったのかもしれないけどさ。
「どなたでありますか。先輩」
「教育委員会の人らしいよ。美香に聞いた話だとな」
「……む」
「あれ? 違いましたか」
スーツ女は顎に手を当てて、なるほどと呟く。
なんだ。妹の情報が間違っていたのだろうか。これまで美香が言ったことが外れた試しがないのだが、たまにはそういうこともあるのだろう。どんなに賢いやつでもときには間違える。人間だもの。
「そうだ。私は教育委員会の者だ」
「おお。初めて見たであります」
「椛田愛だったな。君も心配していたが、元気そうで何よりだ」
「初めましてであります。ぺぱ子と呼んでくださいでありますです」
「そうか。ならぺぱ子と呼ぶとしよう」
「ありがとうございますですあります」
「ございますか、ですか、ありますか。どれか一つに限定し給え。聞き苦しいぞ」
「わかったです」
ん? この人は俺の事件があったから様子を見に来ていたという話じゃなかったか。まあ、でもぺぱ子だしな。知られていてもおかしくはない、のか? 教育委員会の人がうちの学校の生徒をわざわざ記憶しているのは変な気もするが。
それとも教育委員会の人は皆そうなのか。大変なお仕事だ。お勤め、ご苦労様です。なんかムショ帰りの人出迎えるみたいになっちった。
「えっと、お名前はなんていうんですか」
「……名前? ああ、そうか。確かに必要だ。そうだな。名前か」
いや、どういう反応だよ。
今の対応は完全に偽名考える振りだろ。本当に教育委員会の人じゃないのか。まさか今度こそ宇宙人では。
そうならばずっと顔が変わらないことにも納得がいく。いや、そうだ。いっそそうであってくれ。
「こういうものだ。よろしく」
名刺を差し出してきた。普通だ。
なんだよ。ワクワクを返せよ。全く。あとこの人はこんなにやり取りをしているのに一向に俺の顔に変わる気配がないな。俺自身の思考が強く影響しているのだろうか。ならば全人類に疑心暗鬼になれば俺の病は治ったも同然だ。やったぜ。違う病になること間違いなしだ。畜生め。
名刺を見ると、上江波呂〈かみえ はろ〉と書かれている。珍しい名前だな。
「えっと、上江さんと呼んでいいですか」
「……構わないよ」
「上江さんはどうしてここに」
「君を探していたからだ」
ですよねー。そうじゃなくて、どうしてここがわかったのか、という意味なのだけど。委員会でも調べたのか。そこまでするか、という気もするなぁ。でも本当に教育委員会の人って名刺にあるし。
「君を突き飛ばした者について聞きたい。なんて言っていたかな」
は? あの不審者のことを聞きに来たのか。散々警察でも話しただろうに。今更過ぎじゃないだろうか。一月も前だぞ。
「意味不明の妄言を吐き散らしていただけですよ」
「詳しく覚えているかい」
「いや、ぼんやりとしか」
「どの程度かな」
「人類がどうたら、文明がなんたらかんたらと」
「ふむ」
ふむ、じゃないが。なんだよ。これ何の時間ですか。
春乃を待つまでに時間があるとは言ってもせめて楽しいものにしてくれないかな。俺としてはあんまり思い出したい思い出じゃない。仮にも死にかけてるんだから。
「他に何か言わなかったかな」
何か言わなかったとか言われてましても。ねぇよんなもん。
あいつは俺を突き飛ばして、そのときに落ちそうになったから俺を掴んだだけだ。そんで、確か驚いた様子で何か、いや、言ってたな何か。確か……。
「お前もか、と」
「……そうか。なるほど、そういうことか」
いや、俺にわからないことを勝手に納得されましても。
「君は今、幸せか」
「どうしたんですか、いきなり」
「あれだけのことがあったのだから、普通の質問だろう」
「幸せですよ。彼女もいますし」
本当に幸せ者だ。春乃みたいな可愛い子の彼氏だぜ。この俺が。なんで選ばれたかわかんないけど。
あとは病気が無ければ完璧だった。
「そうか。君は彼女を選んだんだな」
「選んだ? どういう意味ですか。もしかしてモテモテだったことまで知ってるんですか。俺はむしろ選んでもらったと言いますか」
「……余計なことを言ったな。すまなかった。では私は行くとするよ」
なんか、腑に落ちないな。この人と会話をしていると何か食い違っている気がしてならない。
「待ってください、上江さん。俺たちどこかで――」
「君は無知の知というものを知っているかい」
「はい?」
「ソクラテスの言葉だ。知らないということを知っている、知らないことを自覚しているという意味だよ。多くの人はこれを聞いて知らないことを探求しようと考える。君はどうだい」
「……俺もそう思いますが?」
「だろうね。でも私はこう考えた。知らないことを知る必要はない。知らないことを突き詰めれば、知らなくていいことを知る。これまで知らなくて困ったことはなかった。そのことを知る意味は、果たしてあるのかな。幸せを失ってまで、得る価値はあるのかな。いいかい。よく聞き給え。君は無知の無知でいなさい」
無知の無知?
知らないと言うことを知らない、つまり無自覚でいろと言いたいのか。
確信した。この女は何かを知っている。それも知られるわけにはいかない何かだ。それが何かはわからない。俺の病についてもきっと何かを知っているに違いない。そうだ。だから俺に対して微笑みかけてきた。そうだ、だから――、だか、ら。
「あれ?」
「どうかしたかい」
「いや、あの、あれ? おかしいな」
「言ってごらん」
「いや、すいません。思い出せなくて」
「……いい子だ」
おかしいな。思い出せないや。
上江さんはただ不審者に襲われたときに何か言われなかったかを聞いてきただけじゃないか。おかしなことなんてない。普通のことだ。
教室を出ていく上江さんを会釈して見送った。綺麗な人だったな。でも、あれ? なんであの人、顔を見たのに俺の顔に変わらないんだろうな。
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