第12話 快復の兆しは唐突に
俺は唖然としていた。
隣に彼女と妹がいるにも関わらず、視線はスーツの女に釘付けになる。百八十を超える長身、後ろで一本に括った長い黒髪、丸い眼鏡の下に鋭い眼光。年齢は三十代ほどだろうか。皆が俺の顔に見える中、その女だけは俺の顔に変わらなかった。
意味が分からない。俺の症状は人の顔を俺の顔に誤認識するものだったはずだ。
発症してまだ数日でも人が多い場所には何度も立ち寄っている。そうだと確信できるくらいには散々味わった。俺の診断が間違っていたのだろうか。可能性はある。所詮は初心者の見立てだ。
それとも気づいていない俺の顔に変わらない方法があるのか。
もし後者なら、要因はなんだ。
スーツか、丸眼鏡か、身長か。どれも違う気もするし、もしかしたら全部揃えばいいのかもしれない。
俺の視線に気づいたのかスーツの女が俺の方を向いた。じろじろ見過ぎたようだ。睨まれるものだと思ったのに、スーツの女は微笑みを返してくる。大人の余裕というやつだろうか。
というか、なんでスーツの女が校門前にいるんだ。こんな朝早くに営業で来ているなんてのは違う気がする。新任の教師かもしれない。そうでもないとあんなところにいるのは不自然だしな。
周りの野郎どもが俺に羨望の眼差しを向けてくる。おおう、やっぱり自分の顔でやられると気色悪い。
「彼女の隣でなーんで他の女の人を見てるのかなー」
痛い痛い痛い! わき腹をつねられて体を九の字に曲げる。いや、ほんとごめんなさい。仲直りした傍からこれだよ。
「ごめんごめん、もうしないから許して」
「兄ちゃんの性癖に関しては口出ししないけど、やめなよじろじろ見んのは」
あ、止めて正論言わないで。今は罵倒より辛い。
違う。違うんだけど、弁明できないって。とほほだよ、もう。
「そういうのが好きなら言ってくれれば、その、ね。わかるでしょ」
その上目遣いをやめろ! 駄目だな。一日会わなかっただけで春乃が俺の顔なのが耐えられない。ていうか俺の顔で女性スーツとか嬉しくねぇよ。
ん? いや待て。条件合わせるのに都合がいいな。それで戻ったら万々歳じゃないか。別にスーツは嫌いじゃない。いいと思うよ。スーツのスカートって短いし、ぴっちりしてるし。うん。嫌いじゃない。全然嫌いじゃない。
「お願いします」
「へ!? 本当にするの?」
「公衆の面前で何興奮してんだ変態野郎、花壇に首から下埋められたいの?」
「美香ちゃん!?」
「あ、やべ」
妹も兄の変態行為の前には本性を隠せないらしい。周りの男子たちが豹変した妹に引いて……いや、数人喜んでる。よかったな美香、飼い犬候補どもだぞ。
に、睨まれても俺悪くねぇし。
「とりあえずスーツは今度着てもらうこととして」
「そこは確定なんだね……」
いまさら駄目って言っても聞かないもんね。いいって言ったもん。いや、言ってないか。わかるでしょっていい言葉だな。否定にも肯定にも使える。俺も今度使ってみようかな。
おっといけない話が逸れた。
「さっきの人新任の教師なのかなって思ってさ」
「んーどうだろうね」
「何期待してんのさ。あれ教育委員会の人だよ。視察にでも来たんじゃない」
俺と春乃は顔を見合わせてから美香を見る。いや、なんで後輩のお前が知ってんだよ。顔が広いとは聞いてたけど高校の範囲外は聞いてないぞ。
「教育委員会の視察ってなんでだよ。なんかあったっけか」
「いや兄ちゃん当事者じゃん。何忘れてんのさ」
ああ、あれか。突き落とされて死にそうになったやつ。そんなこともあった。そんなことじゃないはずなんだけど、心の傷は春乃のおかげで治療済みだ。
なんだかんだで一ヵ月も経ったのか。時間が過ぎるのは早い。
「死にかけといてよく忘れられるよ。兄ちゃん心臓毛だらけじゃないの」
「いやお前、毛だらけって。もっと違う言い方あっただろ。まあ、帰ったら妹がボロボロ泣いてたことは覚えてるよ。おにいちゃーん、おにいちゃーんて」
「美香ちゃんはブラコンなんだね」
「べ、別にブラコンじゃないし。春ちゃんのほうが兄ちゃん好きじゃん」
「ち、違うでしょ好きの意味合いが」
「へーじゃあ私の方が兄ちゃん好きー」
おお憂い奴め。よいよい近こう寄れ近こう寄れ。
ちょ、近い近い踏んでる足踏んでるから。
「わ、私の方が好き! だから」
片腕ずつ掴まれてゆらゆら揺さぶられる。うーん、幸せ。まさに両手に華。
顔が俺じゃなければな。近い近い。もっと離れろ馬鹿。俺の顔でサンドイッチは嫌だ。俺は具じゃない。どっちかならパンだ。つまり俺の顔をしている二人もパンなわけでパンをパンで挟んでる。どんな新商品だよ。売り物にならんぞ。
さっきより周りの視線が痛い。校門でこんなことしてたらそうなるわな。体育教師までこっち見てやがる。あ、これが狙いだったのか!?
本当に末恐ろしい妹だ。
「ごめんな妹よ。兄ちゃんは春乃を選ぶ」
「やーんはくじょーものー」
美香はぱっと手を離した。台詞が間延びしている割りに手を離すのが早いぞ大根役者め。美香はじゃね、と言ってそのまま下駄箱へ向かっていった。手を振ってやる。見えてないだろうけど。方向同じだし、じゃあねも何もないんだけども。
俺たちもその後を追う。
「しっかし、さっきのスーツの人どっかで見たことある気がするんだよなぁ」
「そうなの?」
「でも、思い出せないんだよなぁ」
前方で妹がペアピンを弄ってるのをぼんやり眺め、あのピンにメモ貼り付けて置いたら楽でいいなと思った。絶対怒られるけど。
「朝から見せつけてくれるじゃねぇかよお」
教室に入ったら俺にメンチ切られた。腹立つ顔しやがって。誰だこいつ。
「いいよなぁお前は。可愛い妹と可愛い彼女。こっちは生意気な弟とお前なんだぞ。釣り合いが取れてないと思わないか」
「おーそりゃ悪かったよって、おいなんで俺までカウントされてんだ。勝手に仲間意識出してんじゃねーよ」
「おーそりゃないぜマイフレンド。お前と俺様は連れションの仲じゃないか」
「あ、お前岩崎か。おはよう」
「今気づいたの……? お、おはよう」
なんか傷ついている奴がいるけど気にしないことだ。なんだ連れションの仲って。汚いだろうが。便所だぞ便所。あと連れションで人の股間凝視する野郎なんざ気にかけてやる必要はない。
畜生、俺でかいほうだと思ってたのに、よりにもよってなんでお前のサンシャインの方がでかいんだ。小便以外に使い道ねぇだろうがお前は。
「なぁ、最近冷たいぜー。もっと熱くなれよ」
「情熱と正反対の男が何をほざいてやがる。お前テニスできないだろうが」
「お前だってできないだろう。俺様と同じだ」
誰と誰が同じだ、この野郎。今お前俺の顔なんだぞ、洒落にならねぇこと言ってんじゃねぇぞ。
いや、知らないんだから無理か。
「そういや見たか、校門のとこにいたスーツのボッキュッボン! 眼福だぜ」
「ああ、あの人な。笑顔ももらったよ」
「なんだとこの野郎。お前には春乃がいるだろうが」
さんを付けろよ、デコ助野郎。そういやコイツの下の名前アキラだったな。
どうでもいいけど。
「ふっ。モテる男は辛いぜ」
「本当になんでモテてたんだろうなお前。今はこんななのに」
「なんだとこの野郎」
二人とも喧嘩腰になってくると、春乃が座席から俺たちを見ていた。
岩崎とがっしり肩を組む。二人でサムズアップだ。くすりと笑って春乃は前に向き直り、友達と会話を始めた。
危ない危ない。座席の位置覚えてなかったら、この距離から見分けられなかった。
「……助かる」
「例のブツ一冊だ」
えー……仕方ない。
まあ冊という単語でお察しだろうがその通りの秘蔵本だ。岩崎は二学年男子全員の性癖を網羅している。恐ろしい男だ。秘匿主義の奴らさえ掌握しているのだから恐ろしい。コイツが変態紳士でなければ強請ってきただろう。
で、だ。コイツはそいつにピッタリの本を寄越す代わりに相手の持っている本と交換しているのだ。
正直マジで何がしたいだろう。
まあ、どうせ病気のせいで楽しめないからいいんだけどさ。
「こちらになりやすボス」
へえ、いいなコレ。分かってるじゃん。やっぱ純愛ものだよ。よしよしこの前間違えて買った寝取られものでもくれてやるか。特に表紙のこの女の子なんてドストライクだよ。このたれ目な感じちょっと春乃に似て……。
「うぉおおおお!?」
見える、見えるぞ。顔が分かる!?
なんでだ。いつの間に治った。顔を上げるが皆俺の顔だ。じゃあ、なんでこれは見えるんだ。
いや、そんなことはどうでもいい。
「ちょ、声がでかい、でかいって!」
「ありがとう岩崎! 本当にありがとう!」
「だから声がでか――」
「君たち、これは何かね」
……あっ。
いつの間にか傍らに立っていた国語のおじいちゃん先生に没収された。取り上げられたブツに対して春乃がすんごい嫌そうな顔をする。
いや、あの。その……ごめん、な?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます