第10話 後悔は波のように

 目覚めは最低の気分だった。

 最低だ。無理やりキスして、怒らせて、逃げられて。追いかけて謝罪はしたが春乃はあの後ずっと不機嫌だった。自分の軽率な行動に後悔しかない。楽しいだけの思い出にしようと言ったのに、俺がぶち壊してしまった。

 でも、仕方ないじゃないか。一瞬とはいえ、他人が全て自分の顔に見える症状が治ったのだから。写真や漫画の登場人物まで自分の顔に見える、そんな極限状態にいたのだ。まだ三日目だったとしても、治る保証のない症状に俺の精神は摩耗していた。そんなときに彼女の顔が見えるようになって、「期待した?」なんて言われたらどうなると思う。そりゃ暴走もする。むしろあれでも我慢したほうだ。

 ああ、また病気や相手のせいにしてしまっている。どっちが悪だ、どっちが悪いだのは決めたところでマイナスしかないとわかっているのに。


「おはよゴミ兄ちゃん。いい朝だね。回収日だよ」


 ノックもなしに美香が部屋に入ってきた。朝からとんでもない悪口が聞こえた気がする。貰ったヘアピンを目の前で春乃にプレゼントして以来、こんな扱いだ。まあ俺が百パーセント悪いんだけどさ。

 顔を確認する。俺だな、うん。やっぱり治ったのは一瞬だけだった。窓の外を眺める手間が省けたが、俺の部屋に俺の顔があるとこれまでと違った気持ち悪さがある。ドッペルゲンガーに居場所を奪われる感じだ。妹だとわかっているからまだ気持ち悪いで済んでいる。他人を部屋に上げにくくなってしまった。


「……おはよう」

「どしたの、元気ない。春ちゃんに襲い掛かって殴られでもしたの」

「な、なんで知ってるんだ!?」

「やったの!?」


 やべぇ冗談だった。

 いやだってさ、ピンポイントでそんな冗談くるとか思わないじゃん。ああ、くそ。そんなわけないじゃないかってとぼけりゃよかった。


「兄ちゃんはそういうことしないと思ってたのに……このゴミクズ野郎」

「いや、あ、あの。美香ちゃん? これには訳があってね」

「訳があったら彼女に襲い掛かってもいいんだ。ふーん。じゃあ訳がある私は警察に連絡するべきだよね」

「待って待って待って」

「じゃあ何やったのか言えるよね。言わなかったら、わかってるよね」


 スマホに百十番をうちこんだ場面を見せてくる。そして、このままだとつながっちゃうからね、と言って一文字消した。

 やばい泣きそう。実の妹が脅迫してくるんだけど。

 さっきの妄想が妄想じゃなくなってきた。居場所を追われるにしても行き先が豚小屋なんて聞いてない。ドッペルゲンガーより悪質じゃねぇか。

 美香は見下した目で椅子にふんぞり返った。


「一回だけ聴いたげるから弁明しなよ。くれぐれも慎重にね」

「え、一回て、なんていうか、その、誤解だ」

「何? そーゆう人は皆そういうんだよ。そんなんで納得できるわけないよね。ちゃんと考えて喋ったのかな。言ったよね、慎重にって。考えて出てくる言葉がそんだけなのかな。違うよね? 兄ちゃんは賢いもん。ちゃんと説明できるよね。それとも一回がさっきのでいいのかなあ」


 怖いわ! 何で手慣れてんだよ。やくざかお前は。変な知識ばっか覚えやがって。兄ちゃんはお前の将来が心配だ。まさか生徒会のお手伝いってこういうことじゃないだろうな。

 震えが止まらない。気づけば布団の上で正座していた。


「えっと、ですね。その、遊園地で観覧車に乗ることになって、ですね。そこで春乃が期待しただなんて言うものだから、その、盛り上がっちゃって。キスしたいって言ったら、ちょっと待ってって言われたんですけど、止められなくて、ですね。なんというか、その、しました。キス」


 供述取られたみたいになっちゃったよ。やくざみたいな迫り方しといてなんで警察みたいな感じになるんだ。そりゃ、悪いのは俺だけどさ。お前のもそれもどうなのよ。

 俺の病気のことは話さなかった。言っても信じてもらえないだろうし、信じてもらえたとしても解決策は見つからない気がする。……断じて脅迫されてる状態で明かしたら何をされるのかと思って言わなかったわけじゃない。べ、別にびびってねーし。


「……そんだけ?」

「はい」

「なぁーんだ、つまんないのー」


 椅子から降りて美香は床をごろごろ転がった。どうやら許されたらしい。

 あと床転がるのは構わないけど、たぶん普通の妹は兄貴の部屋の床を転がったりしないと思う。やめとけよ。自分でいうのもなんだけど汚いだろ。綺麗にしてるけどさ。


「もっと爛れたのがよかったー。つまんないー」

「女子高生が爛れたとかいっちゃいけません」

「さっきの話の流れ的にどして兄ちゃん凹んでるのさ」

「え。いや、だって駄目って言われたのに、無理矢理、その、しちゃっただろ」

「キスくらいでまごつくなんて、純情が過ぎるよ兄ちゃん。キスくらい今どき小学生だってしてるって」


 え、嘘だろ。進んでんな今どきの小学生。

 美香もまさかあるのか、経験あるのか。まさか俺より先のステージに。ああ、なんてこった妹に先を越されるなんて。いや、まあ別にいいんだけど。


「兄ちゃんのそのくらい普通だよ、普通。誘ってきたんだから、キスする気はあったんでしょ。意外とむっつりだね春ちゃん」


 兄ちゃんの彼女をむっつり言うのは止めて欲しい……。

 いや、でもそうか。普通なんだな。春乃は怒ってたけど、考えてみればこれまでもたまに喧嘩になるときもあったし。そっか、普通か。


「ありがとうな美香。おかげで安心したよ。てっきり春乃に嫌われたかと」

「考え過ぎ。求められてるんだから困ることはあっても嫌わないて」

「求められてるんだから、か。なるほどなぁ。困るね。確かに求め過ぎたかもなあ。舌入れるのはやりすぎだった」

「ちょっと待ってディープキスしたの」


あ、やべ。


「多分初めてのデートだよね。キスはしたことあったのかな」

「あ、あったよ」

「いつ」

「いや、あの、その」

「いつ!」

「よ、四日前、です」

「早すぎるでしょうが!」


 その日、二回目のかみなりが落ちた。



 怒髪天の妹にこってり絞られた後、リビングに降りて冷めきった朝食を食べた。辛かったな。なぜか朝食を食べていなかった妹が向かいに座っていたのが特に。

 その美香はというと心なしか肌がてかてかしている。聞きたかった話ができたからだろう。爛れた話を。

 なんか途中からディープキスってどんなのだったという話になっていた。あんだけ語っていたのに結局美香は付き合ったことはないらしい。耳年魔という奴だ。年増なんて言ったら殺されるから言わないが。

 俺も似たようなものだが、男と女でも耳年魔の範囲が随分違うようだ。パーフェクトな男とは、という視点と恋愛ってこうよね、って視点。どっちも正直役に立つようで立たないことだけは明らかだ。


「そういや、なんか忘れてる気がするんだよなぁ」

「なんかって何さゴミ兄ちゃん」

「あ、それ継続なんだ……」

「いいからいいから。続けて」


 俺は良くないのだが。まあ、いいんだけど……。


「何か探そうと思ってたんだよ」

「探すって、何を」

「何かわからないんだよ。忘れてることを思い出すために必要なものだった気がするんだけどさ。なんだったかな」

「ふーん」


 美香はたくさんつけているヘアピンの一つを外してカチカチ鳴らした。そして違う位置に付け替える。

 興味なさげだな、おい。


「最近、多いんだよ。忘れてるみたいな感じ。お前はないのか」

「ないかな。んなことより見たい映画あるから連れてって」

「え、ちょっと兄ちゃん人がいっぱいいるところに行きたくないんだけど」

「……春ちゃんにあげたヘアピン」

「連れて行かせてください妹様」


 平穏な日曜日は来なかった。代わりに映画に出てくる自分の顔と座席に座った自分の顔の群れで、新しいトラウマができた。くそったれだ、日曜日。



 


 


 

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