ソロクッキング
葵月詞菜
第1話 ソロクッキング
「ああ、
朝起きてダイニングへ向かうと、母親がバタバタと慌ただしく出かける準備をしていた。
「あれ? お母さん今日どっか出掛けるの?」
「ちょっと急遽職場に行かなくちゃいけなくなって。悪いけど今日のお昼ご飯は適当に済ませてくれる?」
「それは別に構わないけど……」
明樹はのんびりとトースターにパンをセットし、ケトルでお湯を沸かす準備をした。
湯が沸ける頃には、母親はすでに玄関で靴を履いていた。
「じゃあ行ってくるわね。帰りは夕方になると思うから」
「はいはーい」
パンにブルーベリージャムを塗りながら間延びした返事をする。その最後の音が消えるのと同時に、玄関の扉の閉まる音が聞こえた。
日曜日の朝。今日は部活もなく、特に出掛ける予定もないフリーの日だった。何をして過ごそうかとぼんやり考えていると、バタバタと足音が聞こえてリビングに少年が姿を現した。
「ああ、明樹ちゃんおはよう」
「おはよう、コウちゃん」
一つ下の弟の
「コウちゃんは今日部活?」
「半分部活みたいなもんかな。先輩たちと釣りに行ってくる」
彼は釣り部に所属していた。日曜日は基本的に活動していなかった気がするが、部活動関係なく部員たちと川や海に出掛けることも多かった。
「そっか。コウちゃんもいないのか」
てっきり弟は家にいてごろごろしているのだと思っていたのだが。
「お昼は持って行くの?」
もしかしたら弟はちゃっかり昼ご飯を用意しているかもしれない。
「適当にコンビニで済ませようかなと思ってるけど」
調達するようだ。高樹もまた帰りは夕方ごろになるらしい。弟は姉を少し心配そうに見遣った。
「明樹ちゃんこそ、お昼どうするの? 母さん何か置いてった?」
「適当に済ませて、だって。まあ冷蔵庫の中も探してみるよ」
昨日の晩ご飯のおかずの残りか、もしくは冷凍食品が見つかるかもしれない。それらとご飯があればまあ何とかなるだろう。
高樹はまだ心配そうに姉を見ていた。なぜそんな顔をしているのだろう。
「何よ?」
「明樹ちゃん、何も見つからなかった時は潔く諦めてコンビニかスーパーに行きなね」
「それどういう意味?」
「そのままの意味。――っと、じゃあ行ってきます」
高樹は曖昧に笑うと、誤魔化すように玄関へ消えて行った。
明樹は紅茶を啜りながら、若干眉を顰めた。
「……コウちゃんのやつ、失礼な」
さすがにもう高校生だし、高樹よりは年上だ。ペットでもあるまいし、そこまで心配する必要はなかろう。
明樹はやれやれと溜め息を吐いた。
朝起きた時には晴れやかな青い空が広がっていたのだが、午後に差し掛かるにつれだんだん雲行きが怪しくなってきた。窓の外を見ると、いつの間にか空は暗くなってきている。
「え? 今日雨だったっけ?」
昨夜までの天気予報では雨マークはついていなかったはずだ。だが空は刻一刻と暗さと重さを増しているように見えた。
明樹は空を見上げたまま眉を顰めた。こんなことならさっさとコンビニに行けば良かった。
部活で使うバドミントンの用具を手入れし、ごろ寝しながら読み溜めていた漫画を読み漁り、さらにはスマホでネットサーフィンをしていたらもうお昼に差し掛かっていた。そろそろお腹がすいてきたなあという自覚はあったものの、一度だらだらコースに入るともう立ち上がるのすら億劫になる。これで外に出るとなるとなおさらだ。しかもこの天気である。
明樹はしぶしぶキッチンへと赴き、冷蔵庫の中身を検分した。
「うーん……」
おかずらしきものはない。見つけたのは白米が入ったタッパーとお漬物が少々。あとは牛乳やドレッシング、その他何か調理が必要なものばかりだった。
「しょうがない、もうご飯とお漬物でいいか……」
腹が満たせればとりあえず十分ご馳走だ、と思ったところで、高樹の言葉が頭を過ぎった。
『明樹ちゃん、何も見つからなかった時は潔く諦めてコンビニかスーパーに行きなね』
「……」
何となく悔しい気持ちが沸き起こって来て、明樹はもう一度冷蔵庫を眺めた。野菜室を覗くとキャベツともやし、それからキノコ類が入った袋を見つけた。
「野菜炒めなら私でも作れるのでは……?」
少し光明が差したような気がして、それらを冷蔵庫から取り出した。もやしはすでにひげを取って処理が済んでいた。
最後に一人で調理をしたのはいつだっただろう。少し考えて、それが中学生の時の家庭科の授業だったことを思い出す。
「ああ、まだ三年くらい前のことじゃない。大丈夫大丈夫」
謎の安心感を覚えて、明樹はキッチンの前に立った。
キッチンはスッキリ片付けられ、シンクにも汚れがなくピカピカだった。主に料理をするのは母親、そしてたまに父親だったが、二人とも使った後は信じられないくらい綺麗にする。そのおかげでいつも清潔に保たれていた。
自分の顔も映し出しそうな程磨かれたシンクを前に、思わずゴクリと唾を飲み込む。
果たしてこの美しさを損ねてしまっていいものか。恐らく――いや絶対に、自分はこのシンク周りを変わり果てた姿にする自信があった。
(でも野菜炒めを作るって決めたんだから)
変わり果ててしまった時はその時だ。頑張って後片付けと掃除に励む他ない。
明樹は腕まくりをして蛇口のレバーを捻った。
「キャベツってどれくらいの大きさに切ればいいんだっけ? まあ口に入れやすい大きさなら良いか」
キャベツをザクザクと切って、もやしとキノコは手でばらばらとほぐす。
「フライパンどこ……? 菜箸は――あれ?」
普段キッチンに入らないとどこに何が収納してあるのかもままならない。今後はたまには母親の手伝いを買って出ようと反省する。
調味料もまた然り。いざ塩コショウの出番が来た時に思った場所にそれらがないことに気付く。
「え、ちょっ、焦げる!!」
部活で鍛えた動体視力を駆使して塩コショウを見つけ、必死に振るう。
「あれ? これかかってる?」
昔の調理実習など所詮曖昧な記憶だ。明樹は味見をして顔を顰めた。
「かっら!!」
塩コショウの味しかしない。やってしまった。
「ええ~これじゃ塩コショウを食べてるみたい……あ、もうソース味にしちゃう!?」
一人でブツブツ言いながら冷蔵庫からウスターソースを取り出した。これで辛みが抑えられるのではないかと思ったのだ。野菜炒めにどぼどぼと投入した結果、見事な茶色の塊が出来上がった。一口味見をすれば、今度は見事に「ソース味」だった。
「元のキャベツともやしとキノコの味がしない……」
さすがにこれ以上何かを混ぜると取り返しがつかないような気がして、明樹はそこで調理を終了した。あとは白米をレンジで温め、お漬物を添える。
「……まあ、私の昼ご飯だし」
他に家族がいれば文句も出ただろうが、これは明樹だけのご飯だ。文句を言われる筋合いはない。
箸を持って合掌しようとしたところで、玄関の方でガチャリと鍵が開く音が聞こえた。
(もしかして雨でコウちゃん帰って来た……?)
「ああ、明樹がいたのか。ただいま」
「お兄ちゃん!」
帰って来たのは大学生の兄の
「……その茶色のは何だ? 新しいメニューか?」
兄は一目でこれが野菜炒めだと分からなかったらしい。明樹は微かに頬を膨らませて、
「野菜炒めだけど何か?」
「……へえ」
美琴は曖昧な笑みを浮かべてそのままキッチンに入った。
「まだ野菜炒め残ってるよ。お兄ちゃんも食べる?」
「あー……いや、俺はオムライスでも作るからいい」
「え!? 何それズルイ!!」
明樹は兄を振り返って叫んだ。
「何がずるいんだよ。お前が自分で作ったんだろ。立派なご飯じゃねえか」
「そうだけど! でも何かずるい!!」
「……ていうか明樹、この惨状はなんだ……」
キッチンを前に美琴が盛大な溜め息を吐いた。そういえば後片付けは一番最後にしようと思ってゴミも道具もそのままの状態だった。
美琴は全てを察し、慣れたように軽く片付けを始めた。そして今から調理するのに必要なものをすいすいと用意し始める。
「何でそんなスムーズに出て来るの?」
あまりにも不思議で訊いてみると、兄はまた溜め息を吐いた。
「お前以外の家族はみんな知ってると思うけどな?」
それはイコール明樹だけが全くキッチンで料理をしないということだろう。軽くダメージを食らったところでまた一人帰って来た。
「ただいま! あれ、美琴がいる」
今度は高樹だった。やはり天気が悪くなってきたから早めに解散して帰ってきたらしかった。
「高樹、飯は? 今からオムライス作るけど」
「あ、オレのも作って!」
「明樹が作った野菜炒めもあるぞ」
美琴が突き出したフライパンの中身の茶色い物体を見て、高樹が無表情で首を傾げた。
「新しい野菜炒めだね?」
「コウちゃん!!」
明樹は泣きたくなってきた。
「……まあ折角だし、美琴と半分こしようかな」
「俺を巻き込むのか」
兄弟二人の会話にさらに色んな意味で泣きそうになってくる。
暫くすると、美琴が作り始めたオムライスの良い匂いが漂って来た。ケチャップとベーコン、そして卵のお腹を刺激する香り。
「お兄ちゃん、私も食べたい」
「良いけど、お前よく食うなあ」
自慢ではないが、普段から食欲はすごい方だ。それにこのまま二人が目の前でおいしそうなオムライスを食べているのをただ見ているなんて我慢できるはずがない。
「お兄ちゃん、今度オムライスの作り方教えてよ」
「いやその前に野菜炒めマスターしろよ」
数分後、鮮やかな色のオムライスが三つ、目の前に並んでいた。
ソロクッキング 葵月詞菜 @kotosa3
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