第6話 Two heads are better than one. I

一人よりも二人



 レイジは彼女の治癒力の高さに舌を巻いていた。

 次の朝、目覚めの一杯とばかりにリビングへ足を運んだ彼だったが、なにやら物音がする。不審に思いつつ扉を開くと、冷えたスープを必死に温めようと奮起しているジネヴラと目が合った。

「おはよう、っていうんだろう。ジーネはしってるぞ」

 ジネヴラはスープの入った鍋をいじくりまわしながら、得意げに言い放った。

「あ、おお、おはよう。なにしてんだ?」

 レイジはジネヴラのひたいに手を当てる。熱はさがり、充血していた目も白くなっている。時々咳き込んでいるが、昨夜ほどのしつこさではなかった。

「しんどいのなおった。オマツリ、行くんだろう」

 ジネヴラは末広がりのワンピースの裾をパタパタとはためかせながら、瞳を輝かせた。

「その前に、前髪切っちゃおうか」

 レイジは彼女のあご下まである前髪の毛先を見つつ、ハサミを探した。


 本日も晴天である。ジネヴラはフードを外して、レイジの横をちょこちょこと進む。レイジはと言うと、心の壁が薄くなった彼女に嬉しさを感じていた。そして、彼女の一人称が名前になったことの愛おしさに浮つく心を、どう落ち着かせようかと思念している最中でもあった。

 初めて切る前髪。ジネヴラはそわそわとしつつ何度も長い睫毛を瞬かせて首を背ける。レイジはそのたびに小さなあごを固定して、驚いたジネヴラが椅子から転げ落ち、ハサミが刺さりそうになって、を繰り返しようやく切ることに成功したのだ。

 若干切りすぎた感じは否めないのだが。

「ジネヴラ、まずはおじさんの仕事を終わらせてから遊びに行こう」

 レイジは長いカバンを背負うと、ジネヴラの顔色を伺った。真っ先に祭りへと向かいたがっていた彼女は少しだけむくれた表情を見せたが、渋々といった様子で頷く。どうやら、前髪の件はたいして気にしていないらしい。

 ザクザクと湿った土を踏みしめて二人は歩みを進める。

 レイジの家は街の中心から少しズレた場所に位置する。南へ三キロ、馬車に乗って進めば深い森があるのだ。

「しごとって、なんだ」

 ジネヴラは森の匂いを嗅ぎながら質問した。

「害獣退治」

 レイジの声が硬い。息を潜めて茂みに体を隠す。ジネヴラを引き寄せて、頭を下げさせた。

 竜人である少女の嗅覚は人間はおろか、比較的匂いを嗅ぎ分けるのが得意な獣人をも凌駕する。先ほどから獣臭いような、湿ったような、鼻を塞ぎたくなるニオイに脳髄をやられていた。

「罠を仕掛けたんだが、なにか捕まったらしい。気をつけろよ」

 レイジはなるべく音を立てないように進む。体が隠れるように木々の間を縫って進み、罠を仕掛けたと思しきポイントへ向かう。

 すると、『なにか』が暴れまわっている音が耳に届いた。そこには荒々しく呼吸を乱し、土草を跳ね飛ばして足に引っかかった罠を外そうともがく獣——イノシシがいた。全身から鼻に残る獣臭を撒き散らし、怒りに燃えた全身は震え鳴き声とともに憤慨を撒き散らす。口からはみ出した大きな牙は、突き刺さればひとたまりもないだろう。

「なんだあれは」

 ジネヴラは嫌悪感を隠さずにこう言った。レイジは冷静に銃へ弾丸を装填し、ジネヴラの質問に答える。

「野生のイノシシ。このあたりの塀だの畑だの壊しまくっててなんとかして欲しいって依頼が来た。子どもが襲われたらひとたまりもないしな」

 レイジは獣に向かって弓を引くと、完全に動かなくなったことを確認してからそばに寄った。

 ジネヴラの体とほぼ同じ大きさのイノシシは、四肢を投げ出し地面に倒れ伏している。

「これ、どうするんだ?」

 レイジの陰に隠れつつ、彼女はそっと男を見上げた。彼はちらりと少女を見やると優しく頭を撫でて、獲物を荒紐でくくり始める。

「まずは依頼主に、ちゃんとやっつけましたよって証拠を見せに行く。お金をもらって、もし相手がイノシシのことを要らないって言ったら、これを毛皮とお肉と骨に分けて売りに行くのさ」

「肉。これを食べるのか」

 ジネヴラは鼻頭にしわを寄せた。獣臭さが嗅覚を麻痺させて、彼女は慌ててレイジの腰に顔を押し付ける。ハーブと男の香りが心地よくて、ジネヴラはしばらくぼうっと立っていた。

「デカいなぁ、引きずるか。毛皮に傷をつけたくないけど仕方ない」

 レイジは紐を引っ張り、たまに後ろを振り返りながら森を進む。

 深緑の世界は、鳥の鳴き声と遠くから聞こえる水音に包まれていた。二人は言葉少なに道を行く。さくさくと草を踏み抜く音が気に入ったのか、ジネヴラはわざと緑の絨毯の上を歩く。

 ふと、視界の端に黒いなにかが横切った。イノシシの生き残りだろうか? 生き物らしき影はゆっくりと草むらを進む。

 四足歩行の獣だ。鹿のようにも見える。しかしツノは人間の手を模していた。忙しなくあたりを見回しつつ、ときおり耳鳴りのような鳴き声をあげて草を口に含んでいる。

 不気味な動きだ。生命の鼓動を感じさせない、肌の泡立つ空気がじめじめとにじり寄ってくる。

 ジネヴラは怖くなってレイジの腕にしがみついた。

「レージ、あれなんだ? くろくて、いのしし、じゃない。馬にツノが生えたみたいな。あいつからは音がしない」

 レイジはきょとんとした顔をした。首を振って辺りを見渡す。

「み、見えて、ないのか? 右のほうにいる」

 とうとうジネヴラはレイジの大きな手を力一杯握りしめた。子どもの温かな体温とともに、小さな震えが伝わってくる。

 とたん、風の音が止んだ。

 レイジは眉根を寄せ、細く呼吸を繰り返す。

 そうして少女のまぶたを優しく手のひらで閉ざした。

「……なんにもいないぞ。木の影を見間違えてるんじゃないのか。ほら、こっちにおいで」

「でもいる。ずっとこっちみてる」

 レイジは優しく声をかけ、口をキュッと結んだ少女を抱き上げた。

「困ったな。そうだ。怖いなら、おじさんの肩に顔を伏せていてもいいさ。ついでにおまじないを教えてあげよう」

 ジネヴラはこくりと頷く。近くで聞く男の声はひどく優しく、なぜだかとても泣きたくなった。

「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。怖いのが見えたらこの言葉を唱えるんだ」

「パセリ、レージ、ローズマリーにタイム」

「レ、じゃなくてセ。おじさんに魔除けの力はないっての」

 脱力した声で訂正するレイジ。彼の声色のギャップに、ジネヴラは少しだけ吹き出した。

 ざわざわ、ごうごう、さらさら。木々の擦れる音と水の流れる音。そして風が空をかける音に眠気が誘われてきた頃。レイジは半分眠りかけていたジネヴラに声をかけると、木の根に腰を下ろした。

「昼メシにしよう。サンドイッチと紅茶。そこの川で手ェ洗ってきな。大丈夫だ。ここにはもう怖いのはいないし、なにかあればおじさんがすぐに飛んでいくから」

 レイジに促されるまま、ジネヴラは寝ぼけ眼で水音を頼りに坂道を下りる。透明感あふれる川を見つけると、小走りで駆け寄り手のひらを浸した。背中にぞわりと氷が這うような感覚とともに、火照った顔が冷えていく。少しすくって飲んでみた。喉が水分を欲していたのを思い出したのか、渇いた喉元がたちまち潤っていく。

 ジネヴラは両手を振って水を払い、レイジが待つ木の下に走った。

 表面を軽く焼いたパンにチーズと薫製肉、トマトにレタスが挟まったサンドイッチを頬張る。口元にソースをたっぷりとつけながらジネヴラは咀嚼した。パンに具材を挟むだけで、こんなに美味しくなるなんて。少女はレイジの手と同じ大きさのサンドイッチを平らげると、紅茶を飲み干して彼が食べているものに着目した。

「足りんのか?」

 左右非対称の色をした目がじっと食べ物を凝視する。バスケットの中身はもう空っぽだ。一人一個ずつのつもりで作ってきたが、彼女の腹は見かけよりも大きいらしい。

「食いかけだけど、いいなら」

 レイジが言い終わる前に、ジネヴラは彼の持つサンドイッチにかぶりついた。もぐもぐと幸せそうに食むと、ちょっぴり頬を綻ばせた。

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