第5話 Tears are words the mouth can’t say nor can the heart bear.
涙は口では話せない、心でも抱けない言葉だ。
力を抜いても入れても体が言うことを聞かない。ガチガチと歯を鳴らして全身が震える。太陽は照って毛布を温めるが、反対に少女の体は冷え続ける。
昨日、感じたことのないほど高揚した気持ちにどう向き合えば良いのか分からず、ひたすら本能のままに走り出した。彼の制止も聞かずに手すりに足をかけ、気が付けば黒い海に真っ逆さま、という状況だったのである。
空も飛べるはず、とはあのときの心情だ。
「起きてたか。医者を呼んだから、もう少し我慢してくれな」
レイジは暖かい飲み物を差し出すと、ジネヴラの華奢な肩に上着をかけた。彼女の白い肌が熱に浮かされて赤く火照っている。白目も赤く染まって呼吸が荒い。ときおり咳をして鼻をすすっている。完全に風邪をひいたらしい。
しばらくすると、レイジは腰の低い中年の男性を連れて部屋に上がり込んだ。ジネヴラは警戒心をあらわにして二人を観察する。医者は少女の熱を測り、喉を見て、なにやらレイジと話し込んでいる様子だ。
低い声が右から左へと通り抜けていく。まぶたが自然に下がり、起きようとして頭を振った。頭痛が一層激しくなり、ジネヴラは目を閉じて毛布をかぶり直す。途中で、誰かに頭を撫でられたような気がした。
目を覚ませば夜中だった。真っ暗な中、カーテンを開ければ外は誰も歩いていない。月明かりが目を刺激してしみる。
小腹が空いたのか、ジネヴラはそっと部屋を抜け出して静かなリビングに到達した。
キッチンに立ち、鼻をひくひくと動かす。鉛をつけられたような重さと呼吸の苦しさが襲いかかり、彼女は慌てて口で酸素を吸い込んだ。
「こら、悪い子だな」
途端に抱き上げられる。抵抗する気力すらないのか、ジネヴラは振り向く動作だけで済ました。オレンジの豆電球が照らすソファに座らされて、毛布を肩にかけられる。垂れてきた鼻をタオルで拭い、男は温めたスープを少女の前に差し出した。
「食欲出てきたか。薬も飲んで体を温めて寝たら治るさ」
彼のアースアイがジネヴラを優しく見守る。こくり、と頭を縦に振って彼女はスープを口にした。とろとろに煮込んだ野菜は噛む必要がないほどに柔らかい。
たっぷりと時間をかけて、ジネヴラはスープを完食した。レイジは透明なシロップをコップに入れると、ジネヴラの口元に持っていく。
「風邪薬。甘いから飲みやすいぞ」
鼻を近づける。甘い、といえば聞こえはいいが、薬品の匂いを無理に隠した甘さだ。人工的なきつい香りに、風邪で鈍った嗅覚も警告の鐘を鳴らす。
「やだ」
ジネヴラは咳き込みながらそっぽを向いた。レイジはやれやれと肩をすくめると、一つ提案を投げかける。
「ちゃんと飲めたら、またお祭りに連れていってやる」
ジネヴラは目線に疑問を込めた。本当だろうか? 屋台や見たことのないキラキラ、カンテラに歌声。街ゆく人たちの笑顔に願い。少女は初めて見る世界の虜になっていた。オマツリ、という名の悦楽を眺めるのは悪い気分ではなかった。
意を決して、レイジが持っていたコップを受け取る。息を止めて一思いに飲み込んだ。舌の根からジワリと甘味、そして薬の苦さが溢れ出て、ジネヴラは慌てて口元を押さえつける。背中を丸めて顔をふせった。
レイジは目を丸くして、口直しとばかりに飴玉を少女の小さな口に入れた。
ガリガリと一瞬にして音と一緒に四散していく甘い宝石を聞きながら、男は軽く吹き出した。
「そんなに祭りに行きたかったのかい? 心配しなくても、まだやってるからゆっくり休んで治せよな」
シロップか飴玉のおかげか、少々咳が治った小さな彼女を抱き上げてベッドへ運んだ。
毛布をかけて、半開きの窓を閉める。眠りの挨拶もそこそこに、部屋を後にしようとした瞬間、驚くべきことに竜の子どもは自ら声をかけてきた。
「……おまえは、ちがう、のか」
開かけたドアを閉じ、首を回して聞き間違いではないことを確認する。
ジネヴラはじっとこちらを眺めていた。
「なにがだい」
レイジは軽く返答しながら、彼女が横たわるベッドへと腰掛けた。
「わたしの涙は、宝石になるんだ。だから、いままでいろんなやつのところにいた。歳のとった男の家、
ぐす、と鼻をすすって毛布の裾を握りしめる。泣き出しそうな声で、鼻の詰まった声でジネヴラは話を続けた。
「わたしのことを宝涙竜、って言って。みんな、わたしをなぐったりした。痛かったし怖かった。お父さんも、お母さんもわからないけど、もしかしたら、きっといつか、だれかが助けてくれるって思ってた。でも、そんなにあまくなかった」
少女の声色が震えている。涙を流せば痛いことをされる、というのが体にまで染みついているのか、どうしても泣くことができないらしい。
鼻声と絞り出された弱々しいトーンが聞く者の胸を締め付ける。
「怖かった。しらないやつらの家につれていかれて、毎日毎日痛いことされて。おなじ竜種のやつだって、わたしにかみついたりナイフできったりした。どいつもこいつも、手で、鞭で、剣で、ことばで、いっぱいいっぱい傷つけた。わたしが痛がったりすると、ほかのやつらはたのしそうに笑うんだ。そのあと、あったかい部屋で、かぞくと幸せそうに暮らしているのが悔しかった。もう、感情なんてなくなっちゃえばいいって何回も思った。みんないなくなっちゃえばいいって、思ってた。あたまのツノだって、宝石の塊だからっておられたんだ」
子どもの視線が揺れて、色の違う両眼がゆらゆらと落ち着きをなくす。乾いた唇を軽く舐めて湿らせた。それでも浅い呼吸は収まらない。
「もう、ひとりになりたかった。しんどくて寒くて疲れた。みんなわたしのことなんかしらずに生きてくれればいい。そう思って、森で死ぬつもりだったのに。でも、おまえはどうしてわたしなんかをひろったんだ。宝石がめあてじゃないなら、どうして。どういう、つもりなんだ……」
枷の痣が残る手首を、ジネヴラは無意識にさする。
「わたしは、いままで殴ってきた人間よりも、そういうことをしないおまえが一番怖い」
レイジはジネヴラの手のひらを撫でる。彼女の冷え切った両手に体温を伝えようと包み込む。
びくりと少女の体が跳ねた。振り払う体力がないのか、それとも言葉通り、恐ろしくて体が動かないのか、レイジにはわかるすべもない。
「オレがジネヴラを助けたのは、オレがそうしたかったから。あそこでぶっ倒れてたおまえさんを放って帰れるほど、オレは薄情じゃない」
血色の悪い頬に優しく触れ、そのまま小さな頭を撫でた。
「ジネヴラ。おまえさんはまだなにも知らない。死にたいなんて言うのはやめてくれ」
少女の見開かれた目元から青い宝玉が流れた。枕を転がり乾いた音を立てて床に落ちる。
彼女の宝石は止まらない。透明の宝玉、ダイヤの原石がコロコロと躍る。
男は足元に散らばった宝石類など興味も持たず、ジネヴラの左右非対称な色をする瞳を覗く。
「オレは、まだ出会ったばかりだけれど、ジネヴラのことを大切に思ってる。それだけは本当だ。だからもうおやすみ。明日また、な」
くしゃりと彼女の頭を撫でて、レイジは毛布をかけ直してやった。ジネヴラは目尻を乱暴に拭うと眉毛をハの字に下げ、うんと小さな声で返礼した。
「おやすみ、って言うのがいいのか?」
レイジは面食らった。それもつかの間、口角を緩めてニヤリと微笑んで頷く。
「そうか。じゃあ、ジーネは寝る。また明日だ……レージ、おやすみ」
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