第4話 Man cannot live by bread alone. Ⅱ

「ジネヴラー! いた」

 レイジは悲鳴をあげつつある膝をかばいながら、ぜいぜいと肩で息をした。

 春の日差しは走り回る男の体温を容赦なく上げ続ける。ひたいににじむ汗もそのままに、レイジは幼い少女の背中に向かって語りかけた。

「探したんだぞ? 手に持ってるものどうした。まさか盗ってきたとか」

「よっぽどわたしをどろぼうにしたいみたいだな。これは男、のひとにもらったんだ」

 ジネヴラは鼻にしわを寄せながら振り向いた。むくれた口元から、小さな犬歯がちらりと見える。

「おまえ、……はらが、たつ」

 くしゃくしゃになった包み紙を海に投げ捨て、ジネヴラは立ち上がる。そのままレイジを置いて海を後にした。

「こら。ゴミはゴミ箱に捨てるんだ。もう見失わねえぞ。あと知らない人にモノを貰っちゃダメだからな」

 レイジは少しだけ怒った声色で言った。海にたゆたう紙くずを申し訳なさそうに見つめて、すぐに白い彼女へと目を這わす。

「ついてくるな。おまえなんか、きっ……嫌いだ。なにをたくらんでいるのかわからない」

「企んでないぞ。おじさんは見たまんまさ。あとおまえじゃなくてレイジ、っていう名前があるんだよな」

 潔白を証明するように、両手を広げてひらひらと振る。ジネヴラは鼻で笑うと、ぺたぺたと石畳を進んでいく。ときおり後ろを振り向いて男が後ろにいることを視認すると、とんでもなく深い拒絶と嫌悪の表情を浮かべた。

 ひょい、と裏路地に足を踏み入れる。階段の手すりを足掛けにし、段差に飛び乗った。そうして眼下の屋根に着地する。レイジも続いて少女と同じように屋根へと向かい、少し大きな音を立てて接地する。

 ジネヴラは眉根を寄せた。どこまでついてくる気だ、この男は。

 屋根を走り、手すりの隙間をかいくぐって、一歩間違えれば海に落ちてしまいそうな細い堤防を進む。わざと足場の小さな場所を進んだがレイジは臆することもなく彼女の後をついていった。

 もう一度屋根の上を進み、今度は立てかけてあったハシゴを降りる。レイジも遅れずに、半ば飛び降りるように少女に続いた。

「あー、しんど。なかなかやるなぁ。久しぶりにこんなに動き回ったわ。明日は、いや明後日は筋肉痛かな。はは」

 速度を落としたジネヴラの横につき、レイジは遠い目をしながらこう言った。一方の少女は言葉を返すこともせず、口を尖らせて落ちていた石ころを蹴飛ばす。

「もう終わりかい? じゃあほら手ェ繋いで。あ、見ろよジネヴラ。屋台が出てるぞ。行ってみるか」

 ジネヴラは返事をしない。無理やり手を繋ごうとしてくる男の横腹を殴り、手のひらを固く握り締めた。レイジは短くうめき声をあげると、振り回されるもみじの握りこぶしを捕まえて包み込む。

「さ、わ、る、な!」

「ほらキラキラな髪かざり。前髪長いんだから一つどう? キラキラ好き?」

「だいきらい」

 有無を言わせないトーンでレイジの言葉尻を跳ね除ける。

 レイジは途端に悲しげな顔色を浮かべた。それなら、と少女の手を引っ張って食べ物の屋台を指差す。

「じゃあなんか食う? でもさっきもらったんだっけ」

 ジネヴラの鼻がひくりと動いた。レイジはそれを目ざとく見つけ、ニヤリと口の端で笑う。さりげなく食べ物が陳列する屋台の方へと進みつつ、彼女の顔色をうかがう。

 豪快に大きな肉が刺さった串肉は、脂がしたたり鉄板の上で踊り狂う。隣では麺が香ばしく焼かれてスパイシーな香りを巻き起こす。キラキラと電球で目立つように装飾された看板の出店には、真っ赤な丸いアメが棒に突き刺さり、中には小さなフルーツが閉じ込められた状態で売られている。正面の屋台では、白くふわふわとした砂糖菓子が子どもたちの視線を浴び、恥ずかしげに風で揺れた。

 人の波をかいくぐり、たまにぶつかりながら二人は屋台を物色しながら歩いた。と、ジネヴラはとある共通点に気がついた。

「おい」

 ぶっきらぼうに男の注意を引く。彼は嫌な顔一つせず、しかし驚きを隠さずに視線を下に向けた。

「なんでみんな、ひかる四角をもってるんだ」

 レイジは首を左右に振った。彼女の言う通り、道行く人たちは子どもを中心に金色や銀色をした、軽い材質のカンテラを持ち運んでいる。中に入った柔らかい光が振られた入れ物にぶつかって、ぱちんぱちんと点滅し、光を一層強く放つ。

「思いだした。今日は星流しの日なんだ。だからこんなに屋台が出てる」

 ジネヴラの片眉が挙げられた。星流し、という単語に疑問を浮かべているようだ。レイジは緩んだ彼女の拳を広げると、自分自身の大きな手のひらで優しく包み込んだ。

「お祭りさ。金のカンテラは空へ、銀のカンテラは川へ。金は幸福を願い、銀は約束を果たす、ってやつ。カンテラを星に見立てて、みんなで願いごとをするお祭りってこと」

 ——金の幸福は大空へ。銀の約束は水面へ。光と共に、いつしかどちらも叶うでしょう。

 ——空へ、海へ。黄昏と暁の境目に行けば、きっと、きっと。

 広場に出た。真っ白な衣装を着た少年少女が高らかに謳い上げる。オレンジ色の夕日に照らされて、カソックに似た衣装は黄昏色に染め上げられる。

「カンテラ、どっちがいい?」

 レイジはカンテラが立ち並ぶ屋台を指差しながら言った。ジネヴラはというと、下唇を噛み締めて、自由な方の手のひらで上着の裾をくしゃくしゃに掴む。

 ややあって、とてもとても小さな声で返答した。空がいい、と。

 レイジはニッと微笑み、金のカンテラを彼女に渡す。彼はついでと言わんばかりに銀のカンテラを手にとって幸せそうに中身を覗きこんだ。

「飛ばすのはもうちょっと後だぞ」

 

 川がカンテラや屋台の光を反射して輝きながら流れていく。

 柔らかい草の絨毯の上で、二人は座り込んでいた。

 レイジは食事もほどほどに、空と人々のざわめきを耳にする。

 ジネヴラは風景もほどほどに、買い込んだジャンクフードを口にしていた。揚げ物、麺類、デザートにはかき氷と真っ白なわたあめを。

 たらふく食べたのち、少女はチラチラと男の横顔を盗み見る。食欲に負けて色々買わせてしまったが、きっと家に帰ればいつものように宝石を要求するんだろうな。人間が見返りもなしにわたしなんかを相手にするはずがない。

 しかし、今までジネヴラが感じていたゾワゾワとする下品な視線は、この男からは全く感じられなかった。

 彼に習って少女は空を見上げる。天上のカーテンは藍色に染まり、散りばめられた星々が地上の光と共鳴していた。

 あの広い空を飛んでみたい。ジネヴラの心に一つの思いが形を成した。

 どこからか演奏が聞こえてくる。レイジは心地好さそうに川の音、楽器の音、そして海から運ばれてくる潮風の匂いに包まれていた。

 突如、腹を揺さぶる鐘の音が鳴り渡る。驚いたジネヴラはフードの上から頭を抱えて、背中を丸めながら縮こまった。

「ジネヴラ、大丈夫だから。ほら、上を見てごらん」

 レイジの優しい声を頼りに、ゆっくりと目を開く。頭を守りつつ、空を見上げた。

 ジネヴラは両目を見開いた。勢いでフードが脱げてしまったことも気にせずに、首を回して全てを見ようと背伸びをする。

 今や地上を走る人口の光は全て消え失せ、天空に舞う様々な星々が煌めいていた。

 一つ、また一つと視界の端から黄金色の輝きが空を目指す。その正体は、屋台で売っていた金のカンテラである。

「どうか、これからもあの子たちが幸せでありますように」

 隣でカンテラを飛ばした老夫婦が祈るようにつぶやいた。ジネヴラは自らの手の中で光を放つカンテラをじっと眺める。少女の呼吸に合わせて輝きを変えるそれは、なんとも言えない不思議な気持ちにさせるのだ。

 どうして自分以外の者の幸せを願える?

 自身の幸せさえ願えない少女にとって、あまりにも理解し難い感情だ。

 無言で光の中心を見つめ続けると、『目があった』ような気がした。驚いたジネヴラはカンテラを睨みつける。見間違いではないかと穴が開くほど目した。

「ほら、空に向かって手を離せば飛んでいくさ」

 低い声で我に帰る。ジネヴラは言われた通りに空へとカンテラを掲げ、手を離す。

 重力などなかったように、カンテラは空へと吸い込まれてゆく。やがて空の染みとなり、たくさんの輝きとともに星と同化した。

「綺麗だろう。次は川だ。そろそろ流れてくるぞ」

 レイジは川を指差した。ジネヴラは不思議そうに首をかしげる。と、こちらも水鏡に反射しながら輝きを閉じ込めた銀色が流れてきた。

「ほら、流してみろ。落ちるなよ」

 彼は手に持ったカンテラをジネヴラに渡す。恐る恐る受け取って、転げ落ちないよう細心の注意を払って川に流した。

 とたんに輝きを増したカンテラに驚きつつも、後を追い始める童女。後ろ姿は年相応の少女であり、歩くたんびにぴょこぴょこと揺れる白い耳と尻尾は、大人としての保護欲をかきかてる。

 などと思うのもつかの間。徐々にスピードを上げ、レイジを引き離す彼女に男は舌を巻いた。小走りで後を追いかけて捕まえようと手を伸ばす。が、人の根を縫うように走る小さな子どもには歯が立たなかった。ぶつかりそうになりながら、また実際にぶつかっては謝罪を口にして視界の隅に竜の子どもを捉える。

「待て待て、おい、どこに行くんだ。それ以上は行き止まりだぞ」

 大きく踏み込んだジネヴラは、手すりに飛び乗ると白銀の光が流れる大海原へ、そして。

「じ、ジネヴラ——————ッ!」

 男の悲鳴とともに、冷たい海水へと身を投げた。

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